【レポート×歴史小説】浅葱色の翼⑫
大正元年(1912年)
10月27日、日曜日の早朝。
学校は休みではあったが、八重子は早朝から起きて出かける準備をしていた。何せ今日は「帝都訪問飛行」の日である。
故郷の会津では自動車すら珍しかったというのに、今日は空を飛ぶ乗り物が見られるというのだから、科学技術の進歩にはちょっと恐ろしさすら感じてしまう。今度故郷に帰るときには、ぜひ飛行機のことも土産話にしよう。
そんなことを考えながら1階へと降りていくと、縁側で「ご隠居様」が静かに庭を見ている姿が目に入った。
笑顔でないときのご隠居様には、少し怖い雰囲気がある。別に不機嫌なわけでもないと思うのだけど、どうも近寄りがたい雰囲気なのだ。
しかし八重子は、そんな老人の横顔が嫌いではなかった。亡くなった祖父も、よく同じような顔をしていたからだ。ご隠居様は昔話をほとんどしないけれど、もしかしたらご隠居様も祖父と同じように、御一新のときには苦労をしたのかもしれない。
「ご隠居様は、帝都訪問飛行は見に行かないのですか?」
思い切って声をかけてみると、老人はいつもの笑顔に戻って答えた。
「私は代々木練兵場を飛んだ飛行機を見ているからな。もう、冥途の土産は十分に受け取った。これ以上は蛇足というものだろうよ」
その表情に迷いはないようであったが、八重子はそれを少し寂しく感じた。祖父もよくそのようなことを言って、新しい時代のものをあまり見ようとせずに亡くなってしまった。それで良かったのかと今でも考えることがある。もっといろんなものを見せてあげればよかった、と。
八重子は、手にした新聞を見せた。
「飛行機は宮城の周りを一周するそうなので、天皇陛下もご覧になるようです。陛下もご覧になるような飛行機なのですから、私たちも見ておきませんと。
それに、代々木練兵場で飛んだ飛行機は外国製だったそうですが、今度は日本製だそうですよ。ほら、ここにも書いてあります。
『新型飛行機は、徳川好敏陸軍大尉の設計による国産一号機なり。徳川大尉による帝都訪問飛行が成功せば、我が国の航空機技術が西欧列強に伍することの証明とならん』ですって」
老人は、天皇陛下の話よりもむしろ後者の話題に関心を示し、しばらく庭を見つめたあとで「そうか。それならば、行かなければならんか」と答えた。
並んで歩くと「祖父と孫娘」にしか見えない二人が靖国通りに着いたときには、通り沿いはどこも人でごった返していた。朝も早いというのに、あちこちに屋台まで出ている。さながらお祭り騒ぎだ。
老人は八重子のために菓子を買い、二人は靖国神社下の沿道で飛来を待つことにした。
さて、飛行機はどこを飛んでいるのだろう。八重子は周囲をぐるりと見渡してみるけれど、よく晴れた秋の空が広がっているばかりである。
新聞には、飛行機は所沢を早朝に飛び立って東京に向かうと書かれていたけれど、それなら東京に着くのはお昼ごろになるのではないだろうか。いくら空を飛んで移動するとはいっても、そのくらいの時間はかかる気がする。
「ご隠居様、どこか座るところでも探しましょうか。ひょっとしたらまだ飛行機は所沢の近くを飛んでいて、まだまだ待つのかもしれません」
八重子がそう声をかけたとき。
「来たぁ!来たぞぉ!」
近くにいた男が叫び、東の空を指さした。
目の上に手をかざして空を探すと、確かに、不思議な形状のものが浮かんでいる。まるで、風に飛ばされた帯が二枚浮かんでいるようだ。そしてよく見ると、二枚の帯に挟まれたところには人が座っていた。新聞で写真は見たことがあったけれど、実際にそれが空を飛んでいるところを目の当たりにすると、とても現実に起きていることとは思えなかった。
周囲の人々は興奮のあまり、言葉にならない言葉を叫んでいる。八重子も、口に手をあてたまま身動きができなかった。
何せ「空を飛ぶ二枚の帯」は、どんどんこちらに近づいてくるのだ。人々の指先に浮かぶ複葉機は、まるで空から吊り下げられているかのように順調な飛行を続けていた。
飛行機が近づいてくるとともに、雷のようなエンジン音も大きくなってくる。一昨年前に代々木練兵場にも響き渡った星型空冷7気筒エンジンの音は群衆の歓声にかき消されることなく、空一面に満ちているかのようだった。
そうこうしている間に、機体は八重子の手が届きそうなほど近くに迫った。「落ちてくる!」そんな恐怖を感じた瞬間、飛行機はバリバリという爆音とともに、頭上を通り過ぎていった。
雷のような爆音は、奇妙な動物の咆哮のように変わって遠ざかっていく。ほとんどの人々にとってはこれが「初めて見た飛行機」であり、群衆は皆、言葉を失い立ち尽くすばかりだった。
しかしその後は大歓声、そして万歳の大合唱である。
「バンザァイ! バンザァイ! バンザァイ!」
あちこちから声が聞こえてくる。
八重子は、なぜだか涙が出てきてしまった。おそらくそれは怖さ半分、感動半分の涙であろう。にじむ涙を指でぬぐいながら「ご隠居様、私はもうびっくりしてしまいました…」と言いながら老人の方を向く。
すると、八重子は実に不思議なものを見た。
老人の隣にはどういうわけか、若い侍が立っていたのである。
侍は腰に二本の刀を差し、頭に髷を結い、月代もきれいに剃り上げてあった。明治の初めの頃はまだまだ侍姿の人が歩いていたと伝え聞くけれど、廃刀令が発布されて40年近くも経つ大正という時代に、このような格好をしている人はいない。
老人も、周囲にいる群衆も、この侍が見えていないように無関心である。おそらく自分が見ているのは現実世界の人ではない。
八重子はそれを敏感に感じ取ったが、なぜか怖いとは思わなかった。
会津の実家には、戊辰戦争以前に撮影されたという祖父の写真が残されている。若き日の祖父はこのような侍姿で写真に納まっていたので、八重子は「もしやあの世から会いに来てくれたのではないか」と思った。
しかし、よく見ると侍の姿は祖父とはだいぶ違っていた。
二本の刀を差しているのは、左の腰ではなく右腰である。着ている羽織は、袖口を山型に染め抜いただんだら模様だ。いったいこの侍は誰なのだろう。
侍と老人はどちらも微笑を浮かべたまま、飛行機が飛び去った先を見つめていた。わけもわからぬまま、八重子も侍の視線の先を見つめてみる。
そこには、ただ浅葱色の空が広がっているばかりであった。
(完)
(あとがき)
ここまでの話へのリンク
浅葱色の翼①
浅葱色の翼②
浅葱色の翼③
浅葱色の翼④
浅葱色の翼⑤
浅葱色の翼⑥
浅葱色の翼⑦
浅葱色の翼⑧
浅葱色の翼⑨
浅葱色の翼⑩
浅葱色の翼⑪
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