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借金5000万で売上6000万の会社の保証人になった二代目社長のV字回復ストーリー①

2011年、父の立ち上げた内装会社を事業承継をしました。今現在は創業時の内装業を基盤としつつ、3社の介護事業を展開します。

これだけを聞くと、何も問題なくここまで来たよう捉えられてしまうことも多いです。というのも、私が父から譲り受けたときの家業は経営が大きく傾いてました。

傾いた家業をどうにか経ち直そうと、介護事業への業種転換をします。ただ、異業種から介護事業への新規参入した先の道のりはただならぬ険しさでした。2年ほど介護事業から自分の給与を生み出せず、まさに暗中模索の苦しい日々。

それだけではありません。介護事業に参入する前までの長きに渡っても、私は先の見えぬ苦難の路を歩んでいました。

そんな私の歩みを、これから何回かに渡ってお伝えしようと思います。知ってもらうことで、救いとなることもあるかもしれません。

誰かのお役にたてたら幸いです。

『有限会社齋藤アルケン工業』の2代目社長として

父が起こした『有限会社齋藤アルケン工業』は、1981年(昭和56年)に内装業として創業しました。主に軽量鉄骨を用いて、天井や壁の骨組みを作る『軽天工事』を中心に行っていました。

創業者で初代社長となる父親。
父の傍ら経理全般を担う母親。

そんな両親を幼いころから間近で見てきたために、後を継ぐことは私にとってすごく当然のことのように感じていました。

大学生で実家を離れている際、父から『家業を継いでほしい』と改めて話されたときにも自然な形で受け入れることができました。

取引先メーカーでの下積み時代

大学卒業後、すぐに家業に入ったわけではありません。
父の勧めで取引先の素材メーカーへ入社します。

メーカーでは、入社後すぐ製造工場に配属。しかし、入社後間もなくに工場のローラーに手を挟まれて大けがをするという大惨事に見舞われました。何とか復帰した後は、2年ほど工場での製造経験を積み重ねます。その後は、他地域にて営業所の立ち上げに携わりました。

他企業での下積みによって、外から家業を俯瞰的に眺めることも出来たように思います。自分なりに、社会人としての経験をある程度積み重ねたと感じ、2000年に家業に入るために浜田市へ帰郷を決めました。

帰郷後、事業承継のため家業での下積み

家業に入った2000年代初頭は、社会全体がバブル崩壊の影響を受け続けていました。それは建設業も同じで、齋藤アルケン工業も赤字が続いていました。

そんな社会情勢の中、家業に戻る決断をするのに不安がなかったわけではありません。しかし、あえてこの不況時に家業に入り支えることで、自分自身が成長出来ると期待していた側面もあります。

2002年には結婚もし、子どもにも恵まれました。それを機に、会社の保証人を求められることとなります。そのときに初めて、事業がどれだけ傾いているかを数字にて目の当たりにしました。その額面は私の想像の遥かに超えるもので、年間総売上6000万円に対し借入金の残額が5000万円。

借り入れの多さを突きつけられ『もう、逃げられなくなった』と感じたのを今でも覚えています。

歩みは止めなかったが、先は見えていた

家業の傾きを立て直すためには、何が何でも歩みを止めるわけにはいかなかったです。ただ、そうは言っても気持ちとは裏腹に、仕事は減り続け売り上げが望めない日が続きます。

ギリギリのところで経営を続けていたため、日増しに不安が募り気持ちだけが焦る日々でした。

当時、社会全体が経済の傾きに逆らえずにいました。多くの企業が倒産・撤退をしていったのを横目に見た時代でした。これまでのやり方を同じように続けていては、自分達もいずれ潰れてしまうことは目に見えていて、常に焦燥感にかられていました。

ここからは、暫くの年月。
私は、暗中模索することとなります。

続は次回に。



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