性虐的飼育 Ⅱ
その日はお父さまが月に一度、帰ってくる日だった。リビングには一ヶ月ぶりのお父さまがいた。
「お父さま? 」
今日は月末だ。忘れていた。
「璃子。今までどこかに行っていたのか? 」
「お父さま! お久しぶり、お帰りなさい! 」
「璃子も元気そうだな」
そう言って、お父さまは笑って頭を撫でてくれた。まるで、三歳児を抱きかかえるような、甘くて優しい扱いが嬉しかった。
「お父さま、私も桜介もとても元気よ! お母さまも! 」
「それにこしたことはないな。今、華子はどこにいる? 」
咄嗟に返事に困った。お母さまは、多分、奈津子ちゃんの部屋だ。そう言えば、さっきから奈津子ちゃんを見ていない。
「お父さま、お母さまを呼んで来ましょうか? 」
「いや、いい。その内、華子は来るだろう。そうだ。最近評判のスペシャルバターケーキを朝一番に橋本に買いに行かせた。ケーキは沢山あるぞ! 一箱でもずっしりと重い。璃子は台所のトヨ子さんに言って紅茶を入れるように言ってくれ」
橋本とはお父さまの秘書兼運転手の橋本さんのことだ。
トヨ子さんはうちの家政婦さんの名前だ。家事全般はトヨ子さんが仕切ってくれている。
「スペシャルバターケーキ? ながい名前ですね」
「最近、流行っているようだな。橋本は一時間半も並んだらしい」
「お父さま、ありがとう」
「お前たちに食べさせてやりたくてな。最近まで神戸にある老舗の、ホテル・ロイヤルガーデンのティールームでしか食べることが出来なかったらしいが、シェフが交替したようだ。新しいシェフになってから、月に一度、百個だけ数量限定で売り出すことになったらしい」
「とにかく、珍しいケーキだと言うことはよく分かったわ。開けて見てもいいですか? 」
「いいとも。璃子に喜んで貰えて嬉しいよ」
箱を開けてビニールから取り出すと周囲に濃厚のバターの香りが、ふんわりと広がった。
「うわあ! 美味しそう! 」
「璃子、桜介にも声を掛けに言ってくれ。顔を見るのは、一ヶ月ぶりだ。久しぶりに家族が揃ったのだから」
「分かりました」
「華子は美味しい物の匂いで自分からここにやってくるだろうから、来るのを待てばいい。スペシャルバターケーキは一人につき、5箱まで買うことが出来たから、欲張って食べてもそうそうなくならない」
「お父さまったら、そんなに買ったのですか! 」
「うちは、六人の大家族だから、仕方がないだろう」
「それはそうだけど」
六人? 六人もいたかしら? お父さま、お母さま、私、桜介、トヨ子さん、奈津子ちゃん。そう言えば、六人いる。
六人が六人ともそれぞれ孤独なのはどうしてだろう。でも、今日はお父さまがいる。悲しい方向に考えるのはやめにしよう。
「お父さま、少しだけ、待っていて下さいね」
私は、楽しい気分で笑いながら台所に行き、洗い物をしていたトヨ子さんに紅茶の用意を頼んだ。
「トヨ子さん、お紅茶の用意をお願い」
「お嬢さま。茶葉はどの茶葉にしましょうか? 」
無表情でトヨ子さんが言った。トヨ子さんは代々、この家のメイドを勤めている蓮井一家の五代目だ。お父様と同じ四十三歳。
お父さまの乳兄妹で、公認の愛人でもある。
普段は地味にしているが、お化粧をして華やかな色の服を着ると、豊子さんは信じられないほど美しい女性に変身する。
「トヨ子さん。プリンスオブウェールズはおいてあるかしら? 」
私は聞いた。
「勿論、ございます」
トヨ子さんの言動には派手な感じが一切ない。
意識して地味な印象を与えるように振る舞っている。逆にその、控えめで慎ましい性格が、トヨ子さんの端正な容姿を際立たせていると思う。
「私以外は、何故かプリンスオブウェールズの香りが苦手のようだから、他の人の分はアッサムにして。私だけ、プリンスオブウェールズをロイヤルミルクティーにしてちょうだい。それからお砂糖はいらないわ。少し手間だけど」
トヨ子さんは、
「かしこまりました」
折り目正しく、とてもトヨ子さんらしく返事をした。
「お願いね! あのバターケーキを食べて甘い紅茶を飲んだら、二キロくらい太るかも! トヨ子さんも一緒に食べましょう! 」
私ははしゃいでいた。
だって、お父さまが帰って来ているから。お父さまは、とっても優しくて楽しい方だ。周りの人の気持ちを会えただけでザワザワさせる不思議な魅力のある人だった。
「お父さまが帰って来ていると知ったら桜介も喜ぶわ! 」
私は地下室に居るはずの桜介を呼びにいった。
「桜介! 桜介! お父さまがね、帰って来ているの! 」
私の中の時が一瞬止まった。そこには、半裸のお母さまとがいた。
「ご、ごめんなさい! 」
「璃子ちゃん」
ゆったりとお母さまが言った。私は激しい嫉妬を覚えた。心臓が痛い。
「はい! 」
「お父さまが帰っているの? 」
「そうです。お父さまが、桜介を呼んでくれと私に言いました。だから、来ました。悪気はありませんでした。お母さまがいらっしゃるとは思わなくて、ごめんなさい」
「そう言えば、今日は月末だわ。三十日」
「そうです」
お父さまは月末にしか帰らない。愛人の数が幾ら増えても月末の帰宅は絶対に変わらない。
「璃子ちゃん。お父さまは、今、リビングにいるのかしら? お母さまもリビングに行けばいいのかしら? 」
「そうです」
「分かったわ。お父さまにすぐに行きます、と伝えてちょうだい」
「分かりました、言って来ます」
私は逃げるように、その場を去ろうとした。
避難しなければ! と思った。この家の中ではお父さまのそばほど安全な場所はない。
「璃子! 」
え? 何故か桜介に呼ばれている気がして私は振り返った。誰にも呼ばれてはいない。濁った目をした桜介がこっちを見ていた。
桜介?
「呼んだ? 」
「いえ」
その、曇ったような目はいつもの目ではなかった。桜介の目はおかしい。
その目は洗脳された目? 私は桜に聞きたかった。
一昨日、奈津子ちゃんも同じような目をしていた。あのとき、奈津子ちゃんを見て感じた違和感と同じだった。洗脳?
「戻ります」
私は走って逃げた。怖くて振り返らなかった。
何も考えられなくなる、お母さまのあの数々の言葉。呪いのような。催眠術のような。
そして、あの感覚。全てがどうでも良くなるあの感じ。
「どうなっても、私は構わない」
続
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