魔法物語 ロウチ10
遠い昔になにかがあった。
けれど、なにがあったのか語り継がれてはいない。
魔物の軍と人の軍が戦ったという。結果、数万の人命が失われた。そのような、おおまかな話でしかない。
失われた兵士、将校たちの命。その家族にもたらされた数々の悲惨な運命の物語ならいくらでもある。けれど、いかにして戦いが行われ、どう決着したのかが分からないのである。
たとえば戦いの最中に、その戦場に、星が落ちてきたのだと語る者があった。すべてが焼き払われ、なにもかもが消滅したのだと。
さらには、落ちた星は卵であり、その卵から生まれた巨大な竜こそが、やがて竜の大地に育ったのだとも言う。
もっともらしく語る者も、しかしその帰趨を経験したわけではない。見たわけではない。ほとんどが憶測、もしくは推論であるに過ぎなかった。
だが、ひとつ不思議なことがある。
魔物たちを率いて各地を蹂躙したのは、ある魔導師による、なんらかの計画であったと言われるのだが、竜の大地が出来て以来、その魔導師の活動がなくなってしまったのである。
たくさんの人命を奪って、たかだか魔物たちの住処を作るのが目的だったのか。いや、竜の大地は巨竜に等しく、この竜の発生ことが目的であったのだと推測することも出来る。だが、ならば、その竜を生み出すことに目的はなかったのか。その竜によるなにごとかを計画していたのではないか。たとえば、あまねくすべての国々を、竜によって支配するといった目的である。
だがそのような憶測もまた、時を経るにつれ意味を失っていった。黄金の竜と呼ばれた巨竜は、ついにその威力を示すことがなかったからだ。なにかが起こるかもしれないという不安も、一部の期待も、応えられることなく時は過ぎた。さらには、いつしか黄金の竜自体も消えていたのである。
夜の深まりゆく街。
ゆるく濁った大気の淀み。
旅人の街と言う。南に向かう街道は今やほとんど使われなくなったが、東西と北に向かう道は盛んな往来があって人も物も、このグラウゼを経由してゆく。
魔法による安定した照明が普及したこともあって、夜でも大通りは明るい。かつては魔物の出現を恐れて、との名目もあったが、今や魔物の姿を見ることもなく、ただ治安のためにと言う。もちろん、夜になっても栄える店、行き交う人のためでもある。
この夜もまた、不吉な風が吹くでなく、剣呑な空気を身にまとう者たちが行くでもなく、いつものように穏やかに更けようとしている。
ただ、たくさんある宿の一室に、少年とも青年とも呼ばれそうな男がひとり、ひどく緊張していた。
彼は待っていた。
相手は魔導師である。しかもかなりの力を持つ魔導師であると予想できた。ならば、どのような方法で来るのか、予想もつかないのだ。
だが緊張の糸は途切れる。
どうであれ、ずっと緊張しているわけにはゆかない。そこでロウチはため息ついて、再び小さな目を使って状況を確認しようと考えた。身体の目を閉じた。
ちょうどその時、というわけではない。
感覚が切り替わるのに少しの時間がかかるからだ。小さな目が捉えている情景を把握するのは、一瞬というわけにはゆかない。だから、
「おまえは誰だ」
と、唐突に言われて、ロウチはひどく狼狽した。身構えていたはずなのに、よけいに混乱した。二種類の視野の、どちらに意識を向けるべきか分からなかった。あたふたと、意味のない切り替えをした。
「あわわわわ」
とはいえ、冷静に考えるなら、声が聞こえた方に意識を振り向けるべきだった。小さな目の視界の中に、どんな声があっても届きはしないのだから。
ともかく、身体の目を開けた。瞬間、部屋の内装の中に、白い髭をたくわえた黒服の男の姿を見る。見たが、また目を閉じる。小さな目を昇らせて見下ろすグラウゼの夜景を呑み込む。
違う、と思う。また目を開ける。
その正面に、無表情に待つ様子の、魔導師の姿があった。小さな目でニウルカの山の崖を登り、洞窟に入り込んで見た、あの魔導師の姿だった。
少し逆光ぎみで、表情はよく分からない。けれど、ひどく威嚇された気分でロウチは萎縮する。それでも混乱から抜け出して、
「ロウチです」
と答えた。
小さな沈黙が、答えの不適切さを示す。が、魔導師はかまわず続ける。
「わしはラシリウス。知っておるだろう」
ロウチは知らなかった。が、
「はい」
と答えていた。
だいたい、なにをどう「知っておる」のかも分からないのだ。けれど、あえて「知らない」と応じる勇気はなかった。
魔導師ラシリウスは鈍く苦笑した。なにもかも見透かしているように。
「もう一度聞こう。おまえは何者だ」
「ロウチです」
少し質問が変わったけれど、やはりそう答えるしかないのだ。
「そうか。よい、ならば勝手に調べさせてもらおう」
次の瞬間、ロウチの身体を弱い痺れが包んだ。寝台に座ったままでなかったら倒れていたろう。呼吸が止まり、指先ひとつ思うように動かせない。けれど、考えることはできる。魔導師の様子も見える。
なぜかラシリウスはひどく深刻な顔をしている。その様子をながめているうちに痺れは解けた。
「そうか、おまえの父は光の子か」
いつしかその表情からは感情が消えていた。それは、あえて感情を隠しているようにも見えた。
光の子、という言葉に聞き覚えはなかった。なにか重要なことを言われたのだと分かるが、そこまでだ。
「父は、トーフェです」
すると魔導師は小さく頷く。
「ああ。ラギュの魂を持つ者だ」
ロウチが思い出すのは、あの夕刻に庭の木の枝にいた一羽の黒い鳥、その声。だがそれ以上は分からない。
「そうか」
と、とまた魔導師は頷き、けれどやはりロウチにはなんのことか分からない。父は、この魔導師に会おうとしたのだろうか。会って、なにをしたというのか。
「聞きたいことがありそうだが、あまりに面倒な話となる。わしに答えてやる余裕もない」
「だったら、なぜここに来たのですか」
反射的に尋ねていた。
「ああ、そうだな。まずは、そこから話すことにしよう。つまり、わしは確かめに来たのだよ」
ゆらりと長い白髭が揺れる。
「え?」
「おまえが使い物になるかどうかさ。この世界の終焉を、止める力があるかどうかをな」
しかし魔導師は視線を落とす。
「ただし結論から言えば、おまえにその力はない。おまえの父と同じように、無益な魔法だ。だが、小さな可能性が残った」
目まぐるしく繰り出される予想もしていなかった言葉、考え。「光の子」「ラギュの魂」「世界の終焉」「父が魔法」「無益」「可能性」?????
そのくせ、その言葉は胸に刺さるのだ。自分には無関係だとも、嘘だとも、逃げ出す理由がどれもあやふやで、かえって切実に迫ってくるのだ。
「竜を、見たか」
ふいにラシリウスが訊く。
思い出すのは。あの晩に見た青い竜。
「はい。世界の果てを越えて来ました」
「青い竜か」
「はい」
魔導師は、世界の果てというロウチの表現を聞き咎めなかった。そのことで、また胸が騒ぐ。
ラシリウスはゆっくりと腕を組んだ。
「よかろう。となれば、おまえにはおそらく資格がある。あえて死地に飛び込むか、座して死すか、選ぶことができる」
死にそうな目にあうか、死ぬか、その二択。
「選ばないことはできますか」
意を決して尋ねる。
「ならばわしが選んでやろう。おまえは、世界の果てを越えるのだ」
強引、一方的、説明不足、偉そう。ここは絶対に拒絶すべきところだった。ただひとつ、ロウチは悔いていた。あの時、世界の果てを越えようとしなかったことを。
その逡巡を魔導師が見透かしていると、ふいに思う。
「お断りします」
勢いでそう言った。するとラシリウスは声をたてて笑ったのだ。
「いいなおまえは。きっと、ここまで幸せに育てられ、理不尽な目にあわず、無理もせず、穏やかに生きてきたのだろう。些細なことでくよくよして、そんなものが世界のすべてだと思い込み、困難に出会えばさっさと出来ないと決めつけ、なるべく考えないでいたに違いあるまい。それでどうにかなってきた」
哄笑は、馬鹿にしたような含み笑いに変わっていた。
もちろん、そんな評価を受け入れるわけにはゆかない。ロウチは声をあげる。
「幸せに生きてきたら駄目なんですか」
魔導師の口髭がひくりと動く。
「無論、駄目ではない。だが、与えられた幸福を当然であると考えてきたのなら、愚かであると謗られても仕方あるまい。自分の足下さえ知らないで、自分の力だけで立っていると錯覚しているのだ」
胸がざわざわする。
「ひとつ、たとえ話をしてやろう」
ラシリウスは軽く身体を揺らす。
「この世界は、特殊な目的をもって構築されたのだ。その目的とは、おまえの父、黒き風のさだめを持つ者に、幸せな生涯を与えるためだ。その子であるおまえは、その目的を構成する要素として、幸せを与えられている」
眉間に深く皺を刻む。
「だから、そいつが幸せに生涯を終えてしまえば、この世界は存在する意味を失う」
「父は死にました」
投げ捨てる。
「だとすれば、おまえたちに猶予を与えたのだろう。幸せな生涯の終わりに、おまえたちへの幸福を残して、そのぶん早く死んだのだ」
からかわれているようだ。
「だがこれは、たとえ話だ。そんなくだらぬことで、このわしもまた存在を許されている、ということになる。そんな話は受け入れ難い」
小さく頷いた。
「だが一方、この世界はあまりに小さい。そのことを、わしはずっと感じ続けていた。まるで、だれかの心が及ぶ限りまでしか、存在していないかのようだ」
世界の果て。世界の限界。
「だが、ならば越えればいい。この世界を越えて、限界を超えた世界に行くのだ。その心の及ばぬ世界。おまえは、その鍵になるかもしれない。そう感じたから、わしはここに来た」
ラシリウスは大きくため息をこぼした。
「さて、話はここまでだ。おまえがやらぬというなら、それでかまわぬ。世界の境界を越える魔法の形は、最初に調べさせてもらったからな」
魔導師は冷静に言い放った。
それは、「おまえはもう用なしだ」と宣告したに等しかった。
ロウチは混乱するばかりだった。だが、手にした武器を握った。父の名を持つ、なるべく殺さぬ武器。もちろん、それで魔導師を攻撃するつもりではない。気持ちを整理しようとしていたのだ。
ひゅん、と振ってみる。
ラシリウスの視線が止まる。苦笑する。そうして、後ろを向いて歩き出す。
「勝手にするがいい。わしはわしで進もう」
歩き出す。登場の時とは違って、歩いて部屋を出てゆく。その足取りが、ロウチの不安をかき立てる。もう一度手にしたトーフェを振った。
ラシリウスの後ろ姿に嘲笑が張り付いて、その場に蜃気楼のように残っていた。
今夜は、小さな目で世界の果てを越えてみよう。
ロウチはそんなことを考えていた。
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