第12話 普通科連隊から第1空挺団へ転属(航空身体検査や各種適性検査)| Saito Daichi
帰国後、連隊では対抗部隊などの演習にも参加しました。
部隊では色々聞かれました。
ただ、先輩と口裏を合わせて「グランドキャニオンを観た」とだけ言いました。
駐屯地では、弾薬木箱を積み上げた屋内戦闘訓練場のモックアップに入り、敵役になりました。
待機しているだけのはずが、閃光発音筒を投げ込まれたりしました。
日米合同指揮所演習の設営準備の手伝いなどもありました。
中隊に来る新配置隊員の隊舎に行き、アイスを配ったりしました。
この時、ある程度は連隊の動きが把握できていました。
同時に、これ以上自分を成長させるにはどうすれば良いか、悩んでいた時期でした。
正直、陸上自衛隊は自分の考えていた職務のあるべき姿とギャップがありました。
元々クリエイター気質の人間が、公務員的な「7割追求」の職場には合わなかったのもあるのでしょう。
自分の人生の価値と照らし合わせ、退職しようかと考えていました。
今辞めれば、20代で転職活動ができます。
「辞めたら即戦力だね」と、アメリカの射場でインストラクターに冗談交じりに言われましたが、頭の片隅でグリーンカードの取得を一時期真剣に考えました。
民間で働きながら、作家活動をすれば良いと思ったからです。
どの道、国家公務員なので副業は許されません。
作家になるには、キリの良いポイントで辞める必要があります。
その一方で、「1つの部隊しか経験していないのに、希望を捨てるのは時期早々では?」という気持ちもありました。
中央即応集団(現:陸上総隊)という緊急即応部隊隷下ではない、一般部隊だけで組織を知った気になるのは違うと思いました。
そんな時、前期教育で同じ班だった同期が、第1空挺団に転属することになります。
その同期には教育中、何度も助けられ、戦友みたいなものでした。
そんな折、休日を利用し、一緒に遊びました。
同期のいる部隊は廃止される予定でした。
訓練環境も色んな意味で悪く、先輩陸曹が先に空挺団に転属した、とのことでした。
――そう言えば、海外渡航を許可してくれた連隊長も空挺団から来ていたな。
空挺団に興味が湧いていました。
辞めるにしても続けるにしても、何かしら前進しようと考えました。
仲の良かった上司も、情報科に転属することになっていました。
実は、中隊で空挺団への転属募集が終礼時にありました。
ただ、さすがにそこでは手を挙げませんでした。
小隊長に相談すると、唐突なタイミングで少し驚いていたようでした。
冷静に「儀仗隊入ってるけど大丈夫?」と訊いてくれました。
儀仗隊は連隊で編制されるもので、自衛隊中央観閲式とその見本となる巡回展示隊(レッドアロー)があります。
中央観閲式は埼玉県朝霞駐屯地で行われる陸自のパレードです。
総理大臣が高台から戦車や整列した兵隊を見下ろすシーンが有名です。
巡回展示隊はその4カ月くらい前から関東地方の様々な駐屯地や基地を巡り、パレードの見本となる動きを見せる小規模な部隊です。
夏休みも土日も訓練が入っています。
そして巡回展示要員は、その4カ月を終えた後に観閲式にも参加します。
隊員達からは要員に選ばれることは忌み嫌われていました。
そして、空挺団に提出するための身体検査や体力検定もありました。
人事に「もし空挺受からなかったらどうするんだ?」と訊かれ、「その時は自衛隊を辞めます」と言いました。
実は、私は入隊時は体力検定が級外でした。
実験とレポートばかりだったのも影響あるかもしれません。
猛特訓をして1級になったのは中隊配置後です。
巡回展示隊では毎週、一定の曜日に特別儀仗隊の人達が来隊し、儀仗を教えに来てくれました。
しかし、特別儀仗隊の銃はM1ガーランドというライフルで、扱いやすさが89式小銃とはまるで違います。
特別儀仗隊の人も89式を落とすほどでした。
ガーランドは重心の位置が持ち手側です。
私が持った時の感想は「確かにこれなら銃をクルクル回転させることは可能なのだろう」というものでした。
それに引き換え、89式はフロントヘビーです。
そして、頭を素早く指示された方へ向ける技術も、ヘルメットと制帽では重さがまるで違います。
私達はヘルメットなので、「良くそれでできますね」と言われました。
そして、要員と指導部が良く衝突し、怒りから鉄帽を地面に叩き付ける陸曹や、指導部の胸倉を掴む陸士も現れ始めました。
そんな調子である程度形になってくると、陸自だけでなく、海自や空自の基地にも巡回展示を開始します。
防衛大学校、防衛医科大学校、習志野、板妻、武山駐屯地などを巡りました。
後半になると色々な場所を巡り過ぎて、良く覚えていません。
食堂のご飯は板妻が一番美味くて、練馬駐屯地が一番不評でした。
防衛省市ヶ谷にも何回か行き、特別儀仗隊の人達と一緒に訓練しました。
取り敢えず、空挺式体力検定に受かるように基礎体力も上げておきました。
「食堂から出たら屈み跳躍する」、「懸垂をしないと営内に戻れない」、「演習から帰った日は筋トレする」というルールを勝手に作り、勝手に守って吐きました。
筋トレは時間がないので、独自に調べたスポーツ科学を全て取り入れました。
現在出版されている小説の中で教育入校前に鍛える描写がありますが、あれは全て実体験です。
空挺団に送る書類のため、短期間に4回ほど体力検定を受けました。
が、データが混乱したせいで、冬頃に再び体力検定を行い、2級のデータが送られます。
勤務で疲労が溜まり、コンディションも悪かった時なので残念でした。
その頃は、自分のプライベートがほぼありませんでした。
かつて先輩主催の合コンで連絡先を交換した女性とも、数回メッセージを交わして以来、疎遠になります。
「今はそれで良い」と思い、目標に向かって邁進しました。
「駐屯地の医務室で腰部X線検査をするより、自衛隊中央病院で撮った方が受かりやすい」という元空挺の妙な情報を仕入れ、休日に中病へと出向きました。
展示隊用の戦闘服アイロンがけや靴磨きは夜中にやりました。
巡回展示隊要員は非常時の先遣隊や当直などの特別勤務に入れてはならないという連隊本部からの達しがありましたが、私の中隊は問答無用でした。
他の駐屯地に居る間は駐屯地にいる同期が変わってくれました。
午前3時にバスに乗り、他の駐屯地で展示し、午後8時に帰隊後、明日の準備をして夜11時の消灯後は筋トレ、小説を書く勉強もして、2時間寝てバスに乗る——というのが毎日の続きます。
そんな生活が観閲式を含めると4~5カ月続きました。
夜中の1時に筋トレをするより、寝た方が効率的です。
スポーツ科学では間違いなくそうです。
ただ、働いて疲れて寝るだけの生活は、別の意味で危険でした。
「今日は疲れたから」は「明日も休もう」でした。
30分だけ上半身を鍛え、直ぐに寝ることにしていました。
熱が溜まって、中々寝付けなかった記憶があります。
食事は喉を通りませんでした。
自分で決めたということと、反骨心から周囲に弱音を吐きたくはありませんでした。
ここまできたら全部やってやると決めていました。
見兼ねた同期は、靴を磨くのを手伝ってくれました。
身体が痛くて、ベッドの上で柔軟をしてから眠ります。
そんな毎日が最後まで続きます。
観閲式は安倍総理大臣に敬礼し、訓示を聞いて終わりました。
巡回展示隊と観閲式が終わり、空挺に送る書類も整い、冬の演習も終えて、年末年始も鍛え、年明けにランニングしていた時です。
疲労か何かで熱が出て、入校二日前まで二週間ほど寝込みます。
色々な行事を無事に終えて、緊張が緩んだせいかもしれません。
体脂肪率も低かったので、それも影響していたのだと思います。
正直、身体が痛くて熱っぽかったが、辞めると言った手前、引き下がれません。
試しに腕立てや懸垂をすると、入校に向けて鍛え始めた最初の段階に戻っていました。
何より、身体中がだるくてぼうっとしていました。
同期がゼリーや薬を買ってきてくれました。
当直を変わってくれた同期もおり、今も感謝しています。
結局、そのまま基本降下課程に入校しました。
『政軍隷属』の小説の中で素直に入校させているのは、せっかく鍛えたのにまた振り出しになるという描写は読者が萎えてしまうのと、作品の中ではせめて普通に行かせたかったという思いがありました。
入校して直ぐに、昔テレビでやっていた「クイズタイムショック」みたいな装置に身体を縛り付けられました。
回転させられながら一瞬だけ見える8桁の数字を「754908……36!」のような感じで叫び、椅子に座って採点している助教に伝えます。
正直、数字の前にシャッターのような物があり、一瞬開いて直ぐに閉じる仕様なので最後の2、3桁は見えません。
直感で当てました。
皿のような装置を両手で回して、パチンコのピンのような部分に接触させないようにするテストなどもありました。
それで原隊復帰し、再入校した学生もいたという情報を聞いていたので、真剣に望みました。
適性検査は朝霞駐屯地で既に受けており、航空身体検査もパスしていました。
これは民間でもおこなうテストです。
身体に奇形や変形、精神疾患や腫瘍や骨の湾曲がないか、肥満やアレルギーでないか、感染症や代謝疾患、睡眠障害がないかチェックする検査です。
あとは空挺式体力検定が残っていましたが、それもパスします。
懸垂や屈み跳躍などに通常の体力検定を加えたもので、全て半長靴を履いて実施する検定です。
入校中は身体が重く、「こんなはずじゃない」と周囲に言い訳するわけにもいかないので、最低のパフォーマンスで凌ぎました。
上半身裸で体力向上運動(レンジャー教育で実施する体力調整運動で銃を保持しない版)を毎週行ったおかげで、次第に体力も戻ってきました。
雪が降っている中で連続1、2時間程度、裸体を晒しながら微動だにしなかったり、激しくジャンプしたり、駐屯地を猛ダッシュしました。
途中で原隊復帰したのは数人程度で、5回の降下も骨折することなく無事に終えました。
4回目の降下で脚を折った隊員は、包帯でグルグル巻きに固定して5回目を飛んだらしく、根性があるなと思いました。
最初に航空機から飛び出す際は、「ここまで訓練したから大丈夫だろう。早く降ろしてくれ」という気持ちでした。
前に飛ぶ人物の顔が引き攣っているのを見て、自分を客観視し、冷静になれた面もありました。
初めて航空機の降下扉が開け放たれ、機内に外気が爆風のように侵入してきた時は、目の前に座っていた学生の幹部と笑ってしまいました。
高度340mを時速200kmで飛行する航空機から飛び出すのは、余りにも非日常的過ぎて、笑うしかありません。
戦闘機は9~10Gですが、空挺降下で飛び出す瞬間は14Gが掛かるようです。
着地する瞬間は少し怖かったのですが、どこかスッキリした表情になれました。
教育卒業後、原隊復帰し、転属の時期まで原隊で過ごしました。
中隊でお世話になった准尉の方の退官パーティーで、発注していた盾を渡したら喜んでいたのでそれが嬉しかったです。
仲間からポートレートと寄せ書きをもらい、習志野駐屯地の近くにある津田沼駅へと向かいます。
私自身も先輩が上司や後輩がどこか遠方に転属する際は、手袋をプレゼントしていました。
実際に役に立つ物をあげた方が良いという考えでした。
消防や警察に行く同期や先輩には、消防用の手袋やライト、マルチツールナイフなどをあげました。
先に空挺団に行っていた同期とは別の大隊になりました。
居室に赴くと、自分ともう一人の転属者である後輩のベッドがありませんでした。
着隊日は部屋に簡易ベッドを引いて寝ることになりました。
基本同期は3名でしたが、1名は遠方からの転属なので、転入者の歓迎会には参加しませんでした。
そして、非常呼集が掛かりました。