告白の文化と禊祓の文化──キリスト教と神道の違い(平成19年5月7日月曜日)
私小説作家でもエッセイストでもないので、個人的なことや、主観的なことは書くまいと心に決めているのですが、今回のタイトルにあやかって少しだけ「告白」しますと、家人が思わぬ事故に遭い、緊急入院、手術という慌ただしい日々が続き、このブログ(メルマガ)もすっかり間が空いてしまいました。幸い軽傷で済みましたが、私も家族も仕事と生活のリズムが取り戻せないままでいます。
そんなこんなで古い話になってしまいましたが、とても気になることなので、あえて取り上げることにします。それは産経新聞の古森義久論説委員が先月、日経BPネットに書いた「国が謝るとき」と題するエッセイです。
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/column/i/47/
エッセイのテーマは、アメリカ下院で審議されている日本に謝罪を求める慰安婦決議案で、主権国家が対外的に謝罪するという行為は基本的にどのような意味を持つのか、と問いかけています。
◇アメリカ大統領の謝罪
古森さんによると、国家が謝罪を表明するというのは意外と珍しいのですが、ハーバード大学のマーサ・ミノー教授によれば、1980年代から90年代にかけて、かなり変わってきたといいます。レーガン大統領も先代のブッシュ大統領も日系アメリカ人の戦時中の集団収容に謝罪しました。クリントン大統領はアメリカのハワイ武力制圧を謝りました。この背景には、民主主義の深化と拡大、マスコミュニケーションの発達があるといいます。
しかしそれでもなお現代の主権国家はそう簡単には謝りません。対外的な謝罪となるとなおさらで、それはウェスリアン大学のアシュラフ・ラシュディ教授によると
「対外的な謝罪は無意味に終わる場合が多いからだ」
と指摘しています。
「謝罪は相手の許しを前提とするため、その謝罪のそもそもの原因となった行為の真の責任を曖昧にするマイナスの効果もある」
『第二次大戦への日本の謝罪』を書いた日本研究者ジェーン・ヤマザキは、日本が1965年の日韓国交正常化以来、国家レベルで表明してきた各種の謝罪の内容をすべてすくい上げ、紹介し、
「主権国家が過去の自国の間違いや悪事をこれほどに認め、対外的に謝ることは国際的にみて、きわめて珍しい」
と指摘したうえで、日本の謝罪努力は「失敗」と断じているそうです。
「謝罪が成功するには、謝罪の受け手がそれを受け入れる用意があることが不可欠なのに、中国や韓国の側にはそもそも日本の謝罪を受け入れる意思がなく、歴史問題で日本と和解する意図もないといえる」
だとすれば、中国系の反日団体の後押しを受けているといわれるホンダ議員の謝罪要求は何を目的としているのか、日本の安易な謝罪が何をもたらすことになるのか、改めて考える必要があります。その場合、見落としてはならないのは、やはり「謝罪」が意味する文化の違いなのでしょう。
◇ローマ教皇の懺悔、矢内原忠雄の宣長批判
キリスト教文化圏では、どんな罪でも「告白」し、悔い改めれば、赦される、と信じられています。いわゆる「赦しの秘跡」です。
前ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世などは、西暦2000年春に「赦しを願うミサ」を行い、過去二千年にわたる教会の過ちを認め、神に赦しを求めています。この教皇の懺悔(ざんげ)をマスコミは「史上初めて」と伝えましたが、文化史家・竹下節子さんの『ローマ法王』によると、教皇は
「公式の文章で何と94回もカトリック教会の非を認めている」
といいます。バチカンはふつうの国家とは違って物質的な賠償問題から自由で、そのため教皇は
「いとも簡単に謝罪してしまう」。
そして「侮られないどころか、尊敬される」と、竹下さんは指摘しています。
何度お詫びをしても、受け入れられず、「謝罪していない」と批判される日本とは何という違いでしょうか。いったい何が違うのか。まずは著名なキリスト者の声に耳を傾けてみます。
戦時中のキリスト教徒の受難と闘いの代表例として矢内原忠雄・東京帝国大学教授があげられます。雑誌論文などが「反戦的」と攻撃されて、大学を追われました。命の危険まではなかったようですが、個人通信はしばしば発禁処分を受けました。
その矢内原が戦後の第一声で「日本精神への反省」を講演しています(『矢内原忠雄全集19』)。
講演の大半は本居宣長批判で、日本人には絶対神、人格神の概念がない。日本精神を反省し、立派なものに仕上げるにはキリスト教を受け入れよ、と訴えたのでしたが、注目されるのはとくに惟神(かんながら)の道の特色として清浄の観念を取り上げ、大祓(おおはらい)について説明し、批判していることです。
──罪穢れを6月と12月の年2回、定期的に祓い清めるのが大祓で、その罪穢れは神々によって海に運ばれ、飲み込まれ、根の国底の国に気吹(いぶ)き放たれ、さすらい捨てられる。罪という罪が水に流されるのだ。穢れを忌んで清浄を愛するのは長所であるが、罪の処分を簡単に無造作にしてしまうのは短所で、解決が浅い。
日本の神道的罪穢れ観とキリスト教的視点から比較し批判していることでは興味深いのですが、日本人は罪の観念が浅い、と断定する矢内原教授の理解の浅さにむしろ驚かされます。論理的に考えれば、逆に
「告白すれば神に赦される」
と考えるキリスト教の鼻持ちならない傲慢さを指摘することも可能だからです。どちらが優れているということではなく、その違いを理解することが必要です。それなら神道では罪穢れをどう考えるのか。
◇神道思想家の「謝罪外交」批判
葦津珍彦という人物がいます。戦後唯一の神道思想家といわれますが、矢内原教授が大学を追われたころ、東条内閣の思想言論統制に抵抗し、矢内原とは違って、しばしば命までも脅かされたといわれます。
その葦津は、人間は誰でも神聖なるもの、高貴なるものを求めている、といいます。それは人間が罪と穢れから離れがたい存在だということを知っているからだ。人間は罪穢れを祓い、神聖に近付きたいと願っている、というのです。
しかし祓っても祓っても、罪穢れ、過ちを犯してしまうのが人間です。よかれと思ってした行為が、願わざる結果に終わることもあります。だからこそ、さらにまた禊ぎ祓うのです。
それは現人神(あらひとがみ)ともいわれる天皇でさえ、いやむしろ天皇であればなおのこと、国家第一の祭り主として、「国平らかに、民安かれ」と祈る絶対無私のお務めを深く認識されるがゆえに、罪や過ちのないことを期して厳重に潔斎し、日々の祭りをお務めになるのでしょう。
禊祓いを単なる形式と見るような矢内原の批判はまったくの的外れです。
告白の文化であれ、禊祓の文化であれ、その文化を共有していない者同士の場合、それぞれの謝罪は相手に通じません。それぞれの主権国家が国益を主張し合う国際社会ならなおのことで、事実、「悔悛の世界化」が進む現代、アルメニア人を虐殺したオスマン・トルコと日本だけが「悔悛」を拒否している、と批判する政治学者もいるほどです。まして、前近代的な中華思想の発想から日本に謝罪を迫る国の存在はじつに厄介です。
それなら日本はどうすればいいのか、葦津珍彦は、戦後日本の「謝罪外交」を批判し、こう主張しています。
──戦争に敗れた日本人が卑屈な低姿勢で「陳謝」するのは、相手の軽蔑を招くだけである。日本は過去を陳謝するより弁明すべきだ。過去の日本に非がなかった、と強弁するつもりはないし、重苦しい過去の重圧を十分、感じているが、それは二倍にも三倍にも増幅されて、全世界の前で糾弾、断罪されてきた。これ以上、追認するのは無意味であり、愚かだ(『アジアに架ける橋』)。
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