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神道学への疑問。なぜ「粟」の存在が見えないのか?──真弓忠常「大嘗祭」論を読んで(令和4年12月4日、日曜日)


新嘗祭・大嘗祭は明らかに「米と粟の祭り」である。先々週、宮中の聖域で行われた新嘗祭で、陛下は神前に「米と粟」の新穀を供饌され、直会されたはずである。神事のあり方は古来、変わっていないはずである。


ところが、正確な情報を社会に提供しているはずの神社検定の公式テキストや著名神社の宮司を歴任した神道学者までが、新嘗祭=「稲の祭り」説に固まっている。そのため、前回、書いたように、これらを参考文献とするSNSもまた、「稲の祭り」説に終始することになる。いまやSNSの時代だとすれば、これは看過できない。


何年か前、県神社庁で「米と粟」について講演したときもそうだった。持ち時間いっぱいを使って、具体的事実を示し、説明したつもりだったが、最前列に陣取っていた高名な神道学者が「稲の祭りではないのか?」と話を振り出しに戻す質問をしてきたのには驚いた。


この先生が宮司を務める県内の神社はけっして稲作文化圏には立地していない。にもかかわらず、神社界の著名人ほど「稲の祭り」説に凝り固まっている。なぜ事実を事実のままに見ようとしないのか?


▷「稲」で一貫する真弓常忠名誉教授の「大嘗祭」論

令和の御代替わりの際、大嘗祭に関する文献を読みあさった。その資料のひとつに、真弓常忠皇学館大名誉教授の講演録があった。タイトルは「即位式と大嘗祭」。昭和62年に皇學館大学講演叢書のひとつとして、皇大出版部から出版されている。


平成の御代替わりを意識して、講演が企画され、シリーズに加えられたのだろう。国会図書館で読み、「稲の祭り」説とはいえ、60ページほどによくまとめられているのに感激し、ぜひ入手したいと思い、調べたところ、古書ではなく、皇大出版部がいまも販売していることを知り、さっそく注文したのだった。


ところが、一読して仰天した。国会図書館に納本されたものとは別物だった。どうやら版を重ねているようで、入手したものは平成末の出版で、冒頭は令和の御代替わりに関する記述で始まっていた。それでいながら、それに続く本編は内容がまったく同じで、あいも変わらず、「稲の祭り」説で一貫していた。


つまり、真弓先生の大嘗祭=「稲の祭り」説は、30年経っても、何も変わらない、何も進歩していないということになる。これは黙っていられないと思ったが、生来の遅筆ゆえに、文章化できずに終わった。そのことは前回、書いた。


前回は神社検定公式テキストについて書いた以上、真弓先生の「稲の祭り」説についても書かないわけにはいかない。蛮勇を奮って、挑むことにする。なぜ先生は「稲」に凝り固まってしまっているのだろうか?


▷死体化成神話と天降り神話がゴッチャ

SNS上で参考文献に取り上げられているのは、真弓先生の『大嘗祭』(ちくま学芸文庫、2019年)である。もともと昭和63年3月に国書刊行会から刊行され、これを文庫化したもので、ここにも学問の停滞を私は感じる。そんなことがあり得るのか?


全体の内容はきわめて重厚で、私などは足元にも及ばないが、「稲」に終始し、「新穀」と表現するばかりで、肝心の「大嘗宮の儀」の粟がまったく見当たらない。どうしたことだろうか?


たとえば、こうである。


「われわれの祖先が、もっとも大切な生命の糧としたのはいうまでもなく稲米である」


水田耕作が伝来する以前、日本列島に居住していた人々は「われわれの祖先」とは見なさないということだろうか? 非稲作文化圏の民は日本民族ではないということなのか? 天皇にとって、非稲作民は赤子ではないのか?


「『古事記』には、天照大神がはじめて稲を得られたとき、これこそが天下万民の『食いて活くべきもの』とされて、『斎庭の穂』を皇孫ニニギノミコトに授けられて、天降らしめたと伝える」


神社界の専門紙に連載していたとき、記紀神話には「2つの稲作起源神話」が描かれていることについて書いたことがある。大気津比売殺害と斎庭の稲穂の神勅で、片や作物は葦原中国に起源し、片や稲が高天原からもたらされる。


天照大神が「民が生きていくのに必要な食物だ」と喜ばれたのは、五穀の発生を説明する死体化生型神話の方で、稲だけではない。天孫降臨・斎庭の穂の神勅はこれとは別の物語で、神話学の大林多良・東大教授によると両者は系譜が異なるのだという。


大林先生によると、女神の死体から作物が出現するという神話は、東南アジアなどに広く分布し、粟などを栽培する焼畑耕作の文化に属するとされている。他方、天降り神話はユーラシア大陸に広がり、遠くギリシャ神話とも似る。ただし、日本以外は麦の物語である。


真弓先生の大嘗祭論では、死体化成神話も天降り神話もごっちゃになっている。


▷新嘗祭は皇祖をまつる神事なのか?

真弓先生は新嘗祭の歴史を振り返り、『常陸国風土記』に言及している。しかし「新粟のニイナメ」をめぐる物語に触れながら、「粟の新嘗」が民間にあった事実については、なぜかスルーしている。


そして、決定的なのは新嘗祭の中身である。大嘗宮の儀に登場する神饌の品目について、真弓先生は「米の蒸し御飯、米の御粥(今日の水たき御飯)、栗(ママ)の御粥…」と解説している。


「栗」の誤植もいただけないが、昭和天皇の祭祀に実際に携わった八束清貫・元掌典とはまるで説明が異なる。


八束先生は「この祭り(新嘗祭)にもっとも大切なのは神饌である」と指摘し、「なかんずく主要なのは、当年の新米・新粟をもって炊(かし)いだ、米の御飯(おんいい)および御粥(おんかゆ)、粟の御飯および御粥…」と説明している(「皇室祭祀百年史」=『明治維新神道百年史』神道文化会発行)。


真弓先生は八束先生とは面識がなかったのだろうか? 鈴鹿家文書などを見れば、「米と粟」は明らかなのに、なぜ「稲」と言い張るのか?


もう1点だけ、指摘する。新嘗祭の本義についてだが、真弓先生は、星野輝興・元掌典の文献を引き、「天孫降臨の節、皇祖よりお授けになった斎庭の稲穂をお受け遊ばすものと解し奉るより外ない」という説明に同意している。


結局、真弓先生だけではないが、「粟」の存在がまったく見えていないという結論にならざるを得ない。なぜ見えないのか? 新嘗祭・大嘗祭が皇祖の祭りなら、神嘉殿や大嘗宮は不要である。なぜ賢所ほか三殿とは異なる祭りを行うのか、その祭りがなぜ「皇室第一の重儀」とされるのか、いまは亡き真弓先生に直接、話を聞いてみたかった。


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