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【漫画感想】同人女の感情シリーズに共感できないが救われたオタクの話

二次創作作品をよく見る。一般の人以上にピクシブの閲覧時間は長い方だという自負がある。

が、自分の楽しみ方が多くの二次創作作者やそれを楽しむ読者と同じかと言われると、違う気がする。最近強くそう感じるようになった。

きっかけはおけけパワー中島、もとい『同人女の感情』(単行本『私のジャンルに神がいます』)シリーズである。


Twitterで話題になったこの漫画シリーズは、二次創作界隈に生きるキャラクターたちの愛憎を描いた作品である。

この作品に対する感想を読んでいくと、どうやらこの作品は二次創作に関わるキャラクターたちの解像度が高いようだ。「わかる」「自分がまさにこの人だ」といった共感は多く、作中のキャラクターが実在しているかのように振舞う人もいる。

私はこの作品を面白く読んだ。だが、私はこの作品に共感しなかった。共感はしなかった私だが、しかしこの作品に何か、救いのような、胸がすくような思いを感じた。

なぜだろう?何に救われたんだろう?
考えてみてたどり着いた結論があるので、それをここに書く。

私の結論は「この作品は二次創作の、オタク同士のコミュニケーションツールとしての側面を描いたものだから」である。


必要なのは作品と自分と他者

最初に、私の立場を示しておこう。

私はオタクである。詳しくいうとアニメ漫画映画小説問わず、男キャラクター同士の複雑な関係性のオタクである。

そして私のオタク活動に必要不可欠なのは、作品と自分と他者だ。

自分が産み出した二次創作や他の人が生み出した二次創作は必ずしも必要なわけではない。
なければいいと言っているわけではない。あったら嬉しいし楽しいが、必ずしも必要ではないのだ。

基本、私は作品を見る。そして考える。
考えたことをTwitterに書き殴ったり、noteに残したりする。このとき使用するアカウントはもっぱらリアルアカウントで、おそらくその作品を知らない/観てないであろう人たちへ向けて発信する。
他の人の感想を読む。自分と違う視点での感想を特に好む。
以上が私のオタク活動だ。

つまりこの時点で、同人女の感情シリーズに登場する「二次創作への熱意がある人」とは違うのだ。
私は、彼女たちが二次創作に一生懸命になることを展開として楽しむことはできるが、理解はできないのだ。これがこの作品に共感しなかった理由だ。

では次に、この作品の何が自分を救ったように感じさせたのか。ここからはそれを考えていく。

私の活動を紐解いていくと、「同化されること」を嫌う傾向にあるように思う。端的にいうと、「尊い……」と発して、「わかる〜!」と返されることを積極的に避けているのだ。

映画作品にハマったら基本的に一人で足を運ぶ。コラボカフェもイベントも一人で乗り込む。そしてその感想を、その作品に興味がない人の目に入る場所で発信するのだ。

徹底的に「オタク友達」を作らない形での活動になっていることに書きながら気づいた。確かにもう10年近くオタクだが、オタク友達というカテゴリーは私の中には存在しない。

なぜこのような活動をしているのか?
その答えの一つとして、「作品をコミュニケーションツールとして利用すること」への、一種の抵抗があげられる。


コミュニケーションツールとしての作品

こんな経験はないだろうか。

初めて恋人ができた。明日はデートだ。
お互いのことをあまり知らないから、話さなくても楽しめる映画館に行くことにした。
そして二人はとりあえず、気まずくならないような、良い感じの映画を見ることに……

上記のようなシチュエーションにおいて、カップルに選ばれた映画は「コミュニケーションツール」としての役割を担っている。

まだ互いのことを知らないが、映画というツールによって同じ時間を過ごすことが可能になる。
その後感想を言い合えば、さらに深く相手のことを知ることができる。

このような場面は、恋人だけでなく家族や友人の間でもよく起こり得るものだろう。私にもたくさん身に覚えがある。

だが、私はオタクとして作品に触れる時、その作品を他者がコミュニケーションツールとして利用している姿を見ると、「もったいない」と思ってしまうのだ。

その作品をデートの穴埋めに利用するには惜しい!音楽を担当しているのは君の好きなアニメの音楽担当と同じなんだ、アイキャッチで心を掴まれなかったか?作画が綺麗と感じなかったか?それもそう、この作品はなんと5年前から構想があって、一度は企画が頓挫したんだ。でもなんとか公開まで漕ぎ着けた作品なんだ、他にも声優があーだこーだ、このキャラの元ネタがあーだこーだ、このキャラとこのキャラのあのシーンがあーだこーだ……

こんなはちゃめちゃにウルトラクソうるせえことを言いたくなる。作品の楽しみ方は人それぞれ自由であるのに。

こういうクソうるせぇことを言いたくないから、私はなるべく一人で作品を楽しむようにしている。Twitterもなるべく暴れすぎないようにしている(つもりである)。

オタク同士ならそういう会話も弾むのでは?と思う方もいるかもしれない。
しかしそれは違う。むしろ、オタク同士だからこそ一番話しにくいのだ。


地雷・オタク・コミュニケーション

オタクとは、特定の対象(作品やジャンルや人物、物品など)を偏愛する人々である、と私は認識している。

その偏愛の仕方は人それぞれで、多種多様な偏った愛が存在するのだ。

もちろんその中には、相容れないものもある。反発し合うものがある。
つまりオタクは、他のオタクと話すとき、かなり危険なコミュニケーションをしているのだ。

そして私が一番怖れ、恐ろしいと思っているのは「偏った愛を表現できないオタク」の存在である。

偏った愛を表現できないオタクとは?端的にいうと、「尊い……」と発して、「わかる〜!」と返すオタクのことである。

何が尊かったのか、なぜ尊いのか、どこに尊さを感じたのか。
自分自身で把握しているかどうかもこちらからはわからない、そういうオタクが怖いのだ。
彼/彼女らをオタクと表現していいかは議論の余地があるが、この場合は「オタクを自称している」としておく。
自らをオタクと規定しているが、偏愛を表現できない人々と言い換えることができるかもしれない。

私は作品について他者と話すとき、自分の視点、自分の知識からの感想を伝える。そしてそれとは異なる感想を聞くことで、そういう見方もあるのか!という発見をする。

発見があるかもしれないから他者と話すのだ。

しかし、これが全く見えてこない人がたまにいる。偏った愛を表現できないオタクである。こちらのいうこと全てに「わかる」と「それな」で返してくる人である。
そういう反応を返されるうち、私はこう感じてしまうのだ。

「この人は、私の好きな作品を、私とのコミュニケーションツールとして消費しているだけではないのか?」と。

また、オタクには地雷というものがある、と私は認識している。
何かを偏愛するということは、何かを除外することなしには成立しないのではないかと私は思う。

男キャラクター同士の関係性が好きな私は、男女キャラクター間の関係性を意図的に無視、除外している。時にはそのキャラクター自身のセクシャルな部分も暴力的に決めつける。

この行為は、男女キャラクター同士の関係性が好きな人の地雷になりうる。その逆もまた然り、オタクには絶対に相容れることができない他のオタクの存在が必ずあるのだ。

偏愛を表現できないオタクは、どこに地雷があるのかわからない。
何をどこまで話していいのか、どういうテンションで話せばいいのか、何の話しがしたいのか。わからないのだ。


コミュニケーションツールとしての二次創作

長々と語ってきた、ようやく綾城さんたちの話に戻ろう。

同人女の感情シリーズに登場する人々は、非常に熱心に二次創作活動をしている。そして、その活動を通して綾城さんやおけけパワー中島やその他大勢のオタクたちとコミュニケーションをとっている。バッドコミュニケーションもグッドコミュニケーションも、尊敬も親しみも憎しみも、二次創作を通して生まれている。

つまりこの作品は、二次創作のコミュニケーションツールとしての側面を非常に細かく描いた作品なのではないか。

そしてこの作品で描かれる登場人物たちの葛藤は、ここまで私が書いてきたウダウダとしたわがままのようなこだわりのような偏愛なのではないか。

綾城さんが描いた作品を神格化する人、綾城さんの作品に対する他オタクの反応を忌避したい人、綾城さんという存在のオタクになっている人……皆地雷があり、偏った愛があり、そしてそれが事細かに表現されている。

ここが私は嬉しかったんじゃないか。
偏愛が表現されているオタクたちの悲喜交交しながら生き生きとした姿に、「偏愛は何かを排除すること」という自分のオタク活動への考えを肯定されたような気持ちになったんじゃないか。

ここがこの作品へ救いを感じた理由であると、私は結論づける。



私はたまに、オタク友達がいる人のツイッターアカウントを見かけた時、羨ましいなと思う。

一緒にコラボカフェへ行った、一緒にぬいを持って旅行に行った、合同誌を出すことにした。

いいなぁたのしそうだなぁ、ちょっとやってみたいなぁと思う。

しかし私は、他のオタクの地雷を踏むことをひどく怖れているし、そしてなにより、自分と作品という小さな小さなコミュニティが大好きなのだ。

これ以外何もいらない。そう思える作品に出会えた時、私はオタクとして最高の気分になるのだ。

これはこれで、一つのオタク道なのだろう。私はこの道を極めようと思う。

大学生ぶりに4000字近く文字を打った。頭も指先も疲れてしまった。
その点やはり、綾城さんは「神」である。

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