イギリス王室国葬から見える日本人の死生観

 先日しめやかに行われましたイギリス王室エリザベス2世の国葬。キリスト教英国国教会の教義に則り、儀式は行われました。日本でもNHKやインターネットのライブ配信などでリアルタイムで見ることができ、厳かで緻密な儀式の一連を内外に発信した出来事でもありました。
 この国葬で私が注目した点、キリスト教の教義です。実はこの教義が流行り病の規制を欧米が先駆けて撤廃する原動力の一つになっていたのではと思います。今回はキリスト教や仏教・神道の死生観から日本人の死生観とはどういうものか考えていきたいと思います。

キリスト教の死生観

 この度エリザベス2世の国葬では英国国教会のトップ大主教から説教がありました。その発言で印象的だったのが「最後の審判」と「復活」です。
 我々日本国民からすれば馴染みのない用語です。キリスト教では世界は最終的に終末という全てが崩壊し、終わってしまうという考え方があります。その際、神は新たな世界を作り上げ、その場所にいるべき人を振り分ける作業を行います。これが「最後の審判」です。その対象になるのは生きている人だけではなく、死んでいった人も対象になります。死者は「復活」し、生者と一緒に審判を受けます。そして神が新たに作り上げた新世界いわば天国に行く人と地獄に落ちる人に振り分けられます。
 今回のエリザベス2世の棺はウィンザー城というお城のセントジョージ礼拝堂に埋葬されます。我々日本国民のほとんどは亡くなると火葬で荼毘に伏しますが、キリスト教徒は最後の審判の際に復活する際にその戻る身体を遺さなけらば不都合が生じるという考えから伝統的に土葬を選ぶ方がいます。その踏襲に則り、エリザベス2世も埋葬という形式になりました。
 ここで考えておきたいのは故人に対してキリスト教徒はまだ存在を認めて、継続している点です。死んだら終わりではなく、次の機会つまり審判の時にまた会えて一緒に新世界で暮らせるという様な考え方である意味、死に対してポジティブな解釈をしているのではと思います。

神道・仏教の死生観

 さて日本人は死に対してどの様な価値観を持っているのでしょうか、今回は古来からある神道と馴染み深い仏教という観点から見ていきたいと思います。
 まず神道の死生観についてですが、神道において故人はその家の子孫を護る氏神様になり、代々家族の中で敬っていく存在になります。しかし死に対しての考え方はシビアであり、穢れでもあると神道の上では解釈されます。
 古事記・日本書紀の日本神話内でイザナミノミコトという女性の神が出産時に亡くなり、古事記では黄泉の国(日本書紀では根の堅州国)という死後の世界に行ってしまうというお話があります。夫である男性の神イザナギノミコトは黄泉の国からイザナミノミコトを連れ帰ろうとしましたが彼女の朽ち果てた姿を見てしまい、見られた側のイザナミノミコトは怒りに狂い、この世との境まで追いかけ、恐怖の余りイザナギノミコトは出入り口を岩で塞ぎ、この世とあの世は永遠に分かれたという話があります。つまり神道の上では死は断絶を意味し、世界は分けられており、死んだら一つの終わり。また死んだらおぞましい姿になり果て、汚いものだと考えることになります。
 そのため神道の葬儀では神棚にいる神様が死に触れない様、神封じという儀礼を行ったり、故人を守り神にする儀式を葬儀内で行います。
 さて神道では死に対してどの様な対応したか見てきましたが、仏教では死に対してどの様な考え方をしているのでしょうか。
 仏教上、人は死ぬとまた新たな生命に生まれ変わります。これを輪廻と言います。この輪廻する際に6つの世界、これを六道と言います。六道は天上道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道そして仏教では我々のいる世界を人間道と呼び、このいずれに生まれ変わることとなります。生前の行いを鑑みて、閻魔大王が決定を下すことと仏教では教えられています。ここで私が着目したいのは亡くなることによってその故人の存在は断絶することになると考えます。なぜならキリスト教のように同じ故人が同じように生き返るのではなく、別の存在として形作られ、生まれ変わることになります。そうなると故人の存在は連続性のあるものとはなくなってしまいます。私の見解としては仏教では人は死によってその存在は一度終わってしまうと考えているのではと思います。

日本人の死生観とは

 神道と仏教の世界では死は別れであり、あの世とこの世という明確な境界で分かれている。このことが日本人にどういう影響を及ぼしているのか考えてみましょう。まず日本人の死生観は神道的な部分と仏教的な部分がミックスされていると考えます。なぜなら日本人は死んだらあの世に行くと(神道的な考え)、その後49日間で裁判を受けて仏さんになる(仏教的な考え)。そして死んだ人間はもう生き返らない今生の別れであり、死は恐ろしく穢らわしいものだと(神道的な考え)。
 ではこの考え方がどのような影響を及ぼしているのか、ここからは大胆な仮説や私の考えです。

1. 死を取り扱う施設を避ける
 まず死を穢らわしいものだ考えるあまり死を取り扱う施設(葬儀場・墓場)を避ける傾向があるのではと思います。昨年11月にこのような記事が上がっていました。

 この記事を読んでみると死というよりか、いままで生きていたものが動かなくなることに日本人は恐怖感を抱いており、それによって死に対して蓋をして考える事自体避けているのではと思いました。

2. リスクを取ることに対して弱くなる
 先日のエリザベス2世の国葬ではマスクを着用している人はおらず、英国国内から発信されているロンドン市内の映像を見てもしている方は全く居ませんでした。この傾向は全世界的に広がっており、この記事を書いた2022年9月時点で自発的にマスクをしているのは日本だけです。大胆な仮説ですが、「最後の審判」と「復活」思想を持っているのはユダヤ教、キリスト教、イスラム教で死ぬことに対してのリスクをある意味受け入れて、マスクを外しているところもあるのではと考えます。
 逆に日本人は死に対して恐れを抱きすぎて、リスクを受け入れず、感染に恐れて外せない部分もあるのではと思います。ちなみに反ワクチン派もワクチンに対する死というリスクを受け入れらない部分もあり反対しているのではと思います。
 このリスクを取れない部分は日本の様々な部分に悪影響を与えているものだと考えます。

まとめ

 エリザベス2世の国葬から見えたキリスト教の死生観から仏教・神道の死生観そして日本人の死生観、その影響について述べてきましたが、やはり日本は宗教に関して寛容ではありますが、あまりにも宗教観が薄いからこそ危機の時、対処が難しくなると思います。
 自分たちの「死生観」もとい「哲学」もしっかりと振り返ることも大切だと思います。
 最後に先程のwithnewsからの引用を紹介したいと思います。

誰もが死を迎えるにもかかわらず「亡くなった人」を歓迎しない世界というわけであり、この場合、多様性という概念は、すでにそこから除外されたものが何であるかを意識させない、制限された枠組みであることに気付かせない目隠しとして機能するのだ。

だが、わたしたちが死者となったとき、気味悪がられ、追い出される側になるのはわたしたち自身なのである。これは生物としての自分自身を徹底的に冒涜して安堵する究極の自己否定といえるかもしれない。

「遺体ホテル」への反対運動 経営者が語った〝至極まっとうな反論〟
死体を歓迎しないという「究極の自己否定」
2021年11月26日配信
https://withnews.jp/article/f0211126000qq000000000000000W0bq10101qq000023897A

長文をご覧いただきありがとうございました。



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