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「20歳の自分に受けさせたい文章講義」② 構成・ディテール・推敲


こんにちは、齋藤です。

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「20歳の自分に受けさせたい文章講義」 その2です。

早速見ていきたいと思います。


●「構成は眼で考える」

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著者によりますと、「文体の妙、文章の個性、あるいは文章の面白さ。これらを決めているのは、ひとえに構成である。論理構成である。」とのことです。
そうすると、良い文章か否かも文章の構成によって決まることになります。


文章の構成と言われると、すぐに思い浮かぶのが、「起承転結」です。

しかし、著者によると、「起承転結の「転」は、ストーリー仕立ての流れにおいてこそ、効果を発揮する」ものであり、ビジネス文書などにおいて「起承転結にこだわるのは明らかに誤りだ」といいます。

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そこで、著者が勧めるのが、序論・本論・結論の3部構成です。
これは、
序論=客観的な状況説明のパート
本論=自分の意見や仮説のパート
結論=展開された自らの意見を客観的な視点に立ってまとめるパート

と整理されます。

他方、著者は、起“転”承結、という構成も提案します。
これは、冒頭に一般論を述べ(起)、そこに、「転」としての疑問を投げかけ、あるいは、独自の仮説を投げ込むなどし、そうやって読者の興味を引きつけてから、検証作業に入り(承)、結論へつないでいくという構成です。

このように、文章の構成について、ある程度の「型」を持っておき、「型」にはめて展開を考えていくことで、言いたい放題書き散らしてしまうことを防ぐことができるわけです。


●「すべての文章には『主張』が必要だ」

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著者いわく、文章を書く時、我々は、「結局何が言いたいんだ?」という問いに一言で答えられなければならない、とのことです。

「主張」とは、その文章を通じて訴えたい主張であり、「主張」が明確になることで文章全体が読みやすくなります。また、書き手自身が、「自分が何を書こうとしているのか」があいまいであれば、読者にも何も伝わりません。

「主張」を支えるのが、「理由」(主張を訴える理由)と、「事実」(理由を補強する客観的事実)です。


本書では、この「主張」・「理由」・「事実」の三層構造を「論理展開のマトリョーシカ」と言っており、いちばん大きな「主張」の人形を開けると、中にはちゃんと「理由」が入っている。そして「理由」の人形を開けると、そこには小さな「事実」が入っているという構造が守られているのが「論理的文章」であるといいます。

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著者の言う「三層構造」(論理展開のマトリョーシカ)は、法律関係文書ではなじみ深いものです。

法律関係の文書は、「法的三段論法」を用いて書かれねばなりません。

三段論法とは、論理学上用いられる、論理的推論の型を指します。
すなわち、大前提たる一般的な命題(例:人は皆いつかは死ぬ)に、
小前提たる具体的な事実(Aは人である)を当てはめることで、
結論(ゆえにAはいつかは死ぬ)
を導くものです。
まとめると、大前提に小前提をあてはめて、結論を導出するものです。

そして、この三段論法を、法的判断に流用したのが法的三段論法です。
すなわち、
大前提=法令の条項(例:刑法199条 人を殺した者は、死刑または無期もしくは5年以上の懲役に処する)

小前提=具体的事実(例:Aは人を殺した)
を当てはめて、
結論=Aを死刑または無期もしくは5年以上の懲役に処す
を導くことになります。

このように、三層構造の型にはめることにより、文章は論理的に整理しやすくなります。それは、法律関係の文書でも、日常の文章でも同じはずです。


●「面倒くさい『細部』を書く」

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こうして、主張・理由・事実の三層構造で論理を展開していくわけですが、ここで重要なのが、「事実」における細部の描写です。

著者いわく、「本当のリアリティは、日常の何気ないところに転がっている面倒くさい細部を描写することによって生まれる」ものであり、「細部をどれだけ大事にできるかは、文章を書く上での最重要ポイントの一つと考えてよい」とのことです。

たとえば、「大きなウソ」であるゴジラやウルトラマンの設定に無理があっても観客は文句を言いません。
しかし、ゴジラの攻撃から逃げる主人公が、倒壊したコンビニ前にある公衆電話を使って妻や子供たちの安否を確認すると、「携帯電話を使え」とか、「いいから早く逃げろ」とか、「いまどきコンビニの前に公衆電話なんかないだろ」というようなツッコミが入ります。
細かい部分の不自然さがあると途端に興ざめしてしまうため、観客は「小さなウソ」を許せないのです。このように、物事の描写は、細部になればなるほど手を抜けないわけです。

そして、恐ろしいことに、細部においてわずかなウソ・誤りがあれば、その文章全体の内容の信用性すら疑問視されてしまいます。

この点は、弁護士ならば痛いほど認識している部分であります。

つまり、例えば、交通事故において、A車とB車のどちらの過失がより重いのか、を争うために、微に入り細を穿った尋問がなされることがあります。
冷静に考えれば、あまりに細かなディテール部分について誤った説明をしたとしても大勢に影響はない場合は多いのですが、ディテール部分を誤ったことの悪印象が裁判において過大に不利に斟酌されかねず、従って、細部の詰め・作りこみは全く気が抜けない部分となるのです。

●「『わかるヤツにわかればいい』のウソ」

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著者のライターとしての座右の銘として、「著者の理解が深ければ深いほど、わかりやすい表現でどんな高度な内容も語れるはずである。」という、吉本隆明氏の著書の序文の一節が引用されています。
 
確かに、少数派の読者に向けて、そのサークルでしか通じない言葉をふんだんに盛り込んで書けば、確かに面白い文章になります。マニアックな言葉、専門用語・業界用語を盛り込んでいくことで、同窓会のような仲間意識が高められます。

しかし、著者によりますと、こうして専門性に溺れていくと、文章はどんどん雑になるといいます。
「ここは書かなくてもわかってくれるだろう」「これは説明するまでもないだろう」と読者の予備知識に甘え、説明するべきところを説明しようとしない、読者に甘え、本来やるべき説明を怠っているから、読みづらい文章になるわけです。

このことを、法律関係の文書について考えてみますと、法律関係文書は、専門用語、予備知識のかたまりです。法律家同士の共通言語であるテクニカルタームが満載で、一般の方からすると、何を言っているのかよくわかりません。これは、そもそも、専門用語・予備知識のない一般の方が読むことを想定して書かれたものではないから当然です。

しかし、そのような性質の法律関係文書にあっても、やはり、「わかるヤツにわかればいい」というわけではないと考えます。


つまり、法律関係文書の読者は裁判官や相手方の弁護士ということになりますが、そうした読み手の予備知識に甘え、説明すべきところを説明しようとしない文章では、言いたいことが満足に伝わらない、ひいては読者を納得させ、説得することが出来なくなってしまいます。そのような文書では、やはり、法律関係文書としては失格というほかないのです。

ある程度の予備知識は十分説明した上で、なるべく平易な文章で書き進める、ということが、法律関係文書においても要求されるものと思われます。

●「原稿に『ハサミ』を入れる」

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最後に、文章の推敲について書かれた部分を見ていきます。
 
ワープロ、パソコンの普及に伴い、我々は、手書きよりはるかに短時間で、楽に多くの文章を作成することができるようになりました。
「その1」から数えると、ここまでで8000字を超えていますが、手書きで400字詰め原稿用紙20枚を書き上げたような疲労感など全く感じておりません。
 
このように、頭の中の文章を活字にして容易に垂れ流すことができるようになった現在において必要となるのが推敲の技術です。

著者によると、推敲するにあたって最大の禁句となるのが「もったいない」だといいます。

こんなに頑張って書いた箇所を削るなんて「もったいない」。
せっかく何日もかけて調べたから、どこかに入れないと「もったいない」。
しかし、これは、読者と何の関係もない話です。

著者は、「読者は、あなたの「頑張り」や「悩んだ量」を評価するのではない。あくまでも文章の面白さ、読みやすさ、そして書かれた内容について評価を下すのである。」と言い切ります。

推敲とは、このように、サンクコスト(埋没費用)との戦いであり、どれだけ自分の「もったいない」や「せっかく書いたのに」を退け、文章を削ることができるか。
サンクコストの罠に縛られず、前に進むことができるか。ということが重要というわけです。

削るべき一文・一節をそうした「情」にとらわれず、しっかり削ることで、冗長な面白みのない文章となることを避けられるとのことです。

この推敲についての部分は、文章を書いたことがある方なら誰でも思い当たることではないでしょうか。


かく言う私も、「もったいない」や「せっかく書いた」ことを主たる理由として、一文や一節を「残す」判断をしたことは何度もあります。
このブログを書くにあたっても、「せっかく書いた」部分は公開している部分以外に多々あるわけですが、著者の忠告にしたがい、どんどん切っております(それでも一本のブログにしては長すぎるので、本来であればまだまだ検討の余地があるのでしょう)。

●最後に


いかがでしたでしょうか。
この本の教えの通り、一文をなるべく短くし、平易な表現を心がけて書いてきたつもりです。
また、3回読み直し、「もったいない」を排して推敲し、冗長な部分を削ったつもりです。

一方、ブログの構成上、序論・本論・結論のような構成にすることは難しく、あえて言えば、「はじめに」・「本の紹介」・「最後に」(かなり短いが)、というような若干いびつな構成になってしまっています。

この本のレビューを書いていて思ったのは、結局のところ、最も重要なことは、読者に向けて書いている、という意識なのかな、ということです。
読者に自分の伝えたいことを伝えるために、例えば、改行して強調する、一文を短くする、漢字とひらがなのバランスに気を付ける、などのテクニックがあるのであり、読む人はどう感じるか、をないがしろにして小手先のテクニックを理解したとしても良い文章はできないのではないでしょうか。

法律家として、法律関係の書面のクオリティを高めるだけでなく、このブログのような日常の文章のクオリティも高めていけるよう、日々精進していきたく存じます。


これからも、わかりやすく、ためになるような文章でこのブログをお届けしていきたいと思いますので、今後ともお付き合いのほどよろしくお願い申し上げます。





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