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世界の片隅でエヴァ愛を叫んだけども・・・ (エヴァンゲリオンの完結と自分自身のオタク時代の終焉)ネタバレ含む

こんにちは。齋藤です。

月日が経ち、シンジくんよりもゲンドウとのシンクロ率が高くなった気がします。

謎電車を途中下車したゲンドウのさまよえる魂は、一応の救済をみたのでしょうか。

ついに観てしまいました・・・シン・エヴァンゲリオン劇場版。

思っていたよりもスッキリと終わった気がします。

またもや首絞めエンドでは興行的にヤバいので、予定されたハッピーエンドとはいえ、スーツを着たシンジくんが見られたのは本当に良かった。

小学生の頃、毎週楽しみにしていたTVシリーズが、旧劇場版「Air/まごころを君に」によって完結してから20年以上の時を経て、新劇場版で再び完結を迎えました。


「さらば、全てのエヴァンゲリオン。」とのキャッチコピーですので、さすがに再度のリメイクはないでしょう。寂寥感と充実感を味わいながら、劇場を後にしました。

思えば、小学生の頃にTVで観て以来、中学生・高校生・大学生と、私の青春時代のど真ん中に、常にエヴァンゲリオンがあった気がします。夜中にやっていた一挙放送を録画して何度も見返し、何度観てもそのぶっ飛んだ演出、謎が謎を呼ぶストーリーにシビレていました。

私が大学生をしていた約15年前には、エヴァンゲリオンを読み解き、庵野監督の真意を理解することに心血を注いていたオタク野郎が私の他にも無数にいました。それほど我々の世代にエヴァンゲリオンが与えた影響は大きいものでした。


エヴァンゲリオンにドハマりしていた青春時代、感情移入の対照はもちろんもっぱら14歳のシンジくんでした。

20年前のTVシリーズ・旧劇場版では、シンジくんの精神はあまりにも不安定でした。
TVシリーズ最終回・第26話「世界の中心でアイを叫んだけもの」のラストシーンで、笑顔で「父にありがとう、母にさようなら」などと言って、ATフィールドが人々を分かつ、補完されない世界を望んだにもかかわらず、「Air/まごころを君に」で現実世界に戻った途端、絶望からかアスカの首を締め上げるという不安定ぶりでした。

「僕がいちばんうまくガンダムを使えるんだ!」と豪語して(基本的には)積極的に戦いに身を投じるアムロのような主人公と異なり、最終回でも、劇場版になってもウジウジ三角座りをしてロボットに乗ろうとしない、そんなシンジくんの姿勢は、主人公像としては極めて新鮮で、それは、「逃げちゃダメだ・・・」と「もうほっといてくださいよ」とが当たり前に同居する、ごく普通の少年たちの等身大の姿でした。

上手くいかなかったときに必要以上にウジウジしたり、テンションが上がった末に虚数空間に飲み込まれて死にかけたり、そして時には、「逃げちゃダメだ・・・」と言って必死に頑張るシンジくんにイライラするのは、自分自身をそこに見るからだったのではないでしょうか。

そんな私も、ついに35歳になり、子どももだんだん大きくなってきました。
仕事が、家庭が、現実が、空想や妄想の世界を侵食し、あれほど好きだったアニメや漫画に没頭している時間は減る一方となりました。

そうしたオタク性の減少によって、最近感じるようになったのは、心を揺さぶられるシーンの変化です。

1985年生まれの私はミサトさんと同じ年の生まれということで、以前から若干ミサトさん推しの傾向にあったのですが、そんなミサトさんが、自分の血を分けた実の息子と、ほとんど息子のようなものであるシンジくんが並んで笑っている写真を横に張り付けてヴンダーで一人特攻するシーンに最も胸が熱くなりました。

親になってからというもの、子の幸せを願いつつ、自分を犠牲にして死地に赴くシーンですぐに目頭が熱くなってしまいます。
要するに、歳を取ったということなのかもしれません。

そして、冒頭のゲンドウの謎電車です。

旧劇場版ではシンジくんの心象風景だった謎電車に、今回はゲンドウも乗車し、心の裡を独白します。

昔は、「ゲンドウめ、なんてひどい父親だ、子どもが出来ただけで、結局大人になり切れていない大きな子どもなんだ」と訳知り顔で考えていたわけですが、今では、最愛の妻に死なれ、子どもとの距離を測りかねて仕事に逃げる心境は理解できなくもなく(妻に会うために人類の補完を目指すというのは極端ですが)、その意味で、もはや私の感情移入先ももはやシンジくんというよりはゲンドウに近く、あえて言えば、ミサトさんに最もシンクロしていた気がします。

ゲンドウが謎電車を下車したときは、思わず顔がほころびましたが、それ以上に、私がゲンドウの立場なら、息子であるシンジくんの精神的な成長を喜ばしく思ったのではないかと思いました。


今回も、L結界やアディショナルインパクト、エヴァンゲリオンイマジナリーなど、エヴァ特有の固有名詞が所与のものとして突然出てきました。
また、TVシリーズ最終回をなぞった演出など、オールドファンも思わずニヤリとする仕掛けが施されていたことと思います。

以前は、それらを必死に読み解いて、映像の中で起こっていたことを頑張って理解しようとしてきたわけですが、今回は、そうした味付けを気にせず、大雑把に作品を観ることができました。

そうすることで、それほどストレスを感じずに純粋にエンタメとして楽しめたわけですが、このような、作品の細部を捨象してしまう鑑賞の仕方ではもはやオタクとしては使い物になりません。

あれほどハマっていたはずのエヴァンゲリオンを、そうした見方が出来るようになったことに気付き、私の中で、20代前半まで有していた従来のオタク性が死んでいることを実感せずにはいられませんでした。

歳を経るごとに、マンガやアニメを観ても、以前に観た作品の要素を感じてしまい、まっさらな感動というものに出会えなくなってきます。
これが歳をとって感受性が下がることの意味なのかもしれません。

そして、一抹の寂しさはありますが、それは決して悪いことではないはずです。
空想の世界から、仕事に、家庭に、現実に、興味の対象が移っていった、これはある意味、大人になったということができるのかもしれません。

そうすると、若かりし頃、エヴァを観て感じたとてつもない衝撃を、少なくともアニメで味わえることはもうないのでしょう。

また、もう二度と、これほどまでに時間と労力を使って理解したいと情熱を注げるアニメ作品に出会うことはない気がしています。
それは、エヴァンゲリオンの完結と共に私のオタク時代がついに終焉を迎えたことを意味します。

というわけで、「さらば、エヴァンゲリオン。さらば僕のオタク時代。」(これが・・・恥ずかしい・・・)


ちなみにカバー画像は、劇場で無料配布されているフライヤーの裏面?です。「シン・エヴァ」の名セリフ集のようなものになっていますが、この中ですと、

「ヒトには常に希望という光が与えられている。だが、希望という病にすがり、溺れるのもヒトの常だ」が最も好きです。

今回、子どもが神戸アンパンマンミュージアムに行っている間にハーバーランドのOSシネマズで鑑賞しました。

序からQまでDVDを買ったのですが、気がついたらもはやDVDを買うという時代でもなくなって来ています。

1995年のTVシリーズ放送当時、まさに「新世紀」(NEON GENESIS)であった2015年は既に過ぎ去ったため、新劇場版の舞台は20XX年とされているようです。

まさに今、我々は「NEON GENESIS」を生きているのですが、「シン・エヴァ」はやはり従前通りDVDで購入し、フライヤーと映画館の切符を記念に一緒にとっておこうと思っています。







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