なんか、作ってみた【メンバーシップ】

ゲーム「Undertale」をご存じだろうか。

かなり有名なゲームなので
「名前だけは聞いたことがある」
という方も多いと思う。

私見を申し上げれば、noteにいるような方はその内容を知ってるのではないか…知ってる方がまあまあいらっしゃるのではないか…そんな風に思っている。

なので。
故に。

ガッツリネタバレになることを書こうと思うのだが…

ネタバレが嫌な人のために少し改行を挟もうと考えた。
いや考えてない。
脊椎反射的回答とでも言おうか。
つまり、そう思った。
ので改行。




































































































































スクロールどうも。
疲れたでしょう。
今日はゆっくりお休みになって。































































































ハロー。
まさかこんなにスクロールしてくれるなんて。
ちょっとびっくり。
そんな奇特な方がいらっしゃるとはなぁ。
それでは話の続きをしよう。

ゲーム「Undertale」の個人的解釈なのだが、あのゲームのGルートの教訓はつまり

「できるからってやること」

は取り返しがつかない犯罪者的思考でさえあると、そう言うことではないかと思ってる。

それまでの一般的なRPGでは登場するモンスターは全て無感情に、無関心に、無機質に、無闇矢鱈に、「倒されるべき存在」「倒していい存在」「倒すことを推薦されている存在」であった。
これはこうも言い換えることができる

「モンスターだから」

「殺されるべき存在」
「殺していい存在」
「殺すことを推薦されている存在」

そしてこの事は当たり前であり、「殺す」と言う事はゲームシステムによって糖衣されて「倒す」などのより痛みの感じにくい言葉に変換されていた。

そこに疑問を持とうものならば
「ゲームだぜ」
とか
「ゲームだから」

嗜められてしまうのが常であったろう。

それが「Undertale」以前の一般的なRPGに於けるモンスター像であったと思う。

一応、「Undertale」以前にも、そのアイディアの一つとなった「Moon」と言うゲームでは、所謂「勇者」のやっていることの残酷さ非情さを白日の元に晒し、モンスターの立場からその狂気、恐ろしさ、憤りを体感できるようになっているので、そこに「どうなん?」と警鐘を鳴らすようなゲーム自体はあった。
しかしながら、「Moon」はあまりメジャーなゲームとは言い難く、またその一番のメッセージが「そこじゃなかった」為か、そのメッセージ性が多くの人々に認知されるには至らなかった。

因みにMoonの一番のメッセージの恐らく
「ゲームをやめて、外に出よう」
だと思う。
Moon自体、ゲームなのに。
やはり名作か…。

しかし、「Undertale」は違った。
「Undertale」は大ヒットし、その名を知らぬ者はネット上ではなかなか見つけることが難しいレベルに恐らく到達できている。
特に海外の人間には。

「Undertale」の作者はアメリカ人だ。
日本人も全く問題なく楽しむことができるゲームであるが、「家庭的あるあるおやつ」的なノリで「パイ」が出てくる等、所々アメリカを思わせる要素はある。
私にはそれはすんなり受け入れられたが、日本的な食卓が常であった方などにはともするとピンとこない部分であるかもしれない。
これはわたしではなくとある女性の偏見なので私からすれば「そんなばかな」というか、まあないとは思うが。

ちなみに我が家では母が、私が物心ついてほんの少しの間までは、家にあったオーブンでケーキを作ることもあったし、クリスマスにターキーやら、日常でタコスやら、そういう異国情緒を感じる献立がなされることがままあった。
それは父親が仕事で海外に行くことがそれなりあった為か、母親が米国人女性と交友があったためか、ハッキリとはわからないがとにかく、そういう背景があったので、わたしには「ああ、それね」とその文化に察しがついた。
わたしが小〜中学生の頃に姉が海外ドラマにハマっていて、よく海外ドラマや洋画のDVDやCS放送を一緒に観ていたからかもしれない。
中学の頃の私は専らCSでディズニーチャンネルの海外ドラマばかり観ていたから、それが原因かもしれない。
なんにせよ、馴染みがあったのだ。
このくだり長いね?
さて。
「Undertale」の話に戻ろう。

海外の方が、「MOTHER」シリーズや「スーパーマリオRPG」「東方project」など、様々な日本のゲーム、その他を頭の中でミックスして、かつ数々の「不満」「疑問点」を晴らすようなノリで出来上がった「Undertale」は、今までのゲームの数々の「こういうもの」「常識」を打ち破った。

その特異さには十二分の話題性があり、更には「レベルデザインの塩梅のちょうど良さ」「音楽のキャッチーさ」など、多くの面で「ゲームとして完成度が高かった」為、あとはそう「キャラクターやストーリーの魅力」が極めて強かった、そしてなによりも「メタかった」ので、2015年ごろのリリース直後から、Twitterなどに於いて盛り上がりを見せていたように思い出される。

その熱は冷めやらぬどころかが益々ヒートアップしていき、「Undertale」は数年に渡るmemeとまで化す超有名ゲームとなった。

現代はYouTubeがあり、そこに投稿されるゲーム実況を非オタクの人達が普通に観る時代であることも大きかったのだろう。

理由は兎も角、「Undertale」は世界的に認知を得た大ヒットゲームであるといえる。

そんな「Undertale」
Gルート、Genocide routeでは、ジェノサイド、皆殺しが文字通り行われる。
主人公の手によって。
厳密には、主人公の選択によって覚醒したCharaによって。

Gルート最後のシーンは非常に印象的だ。
一般的なRPGでは
「モンスターを倒して経験値を稼ぎ、レベルアップに依ってステータスを上げる」
ことが攻略上通常行われる行為である。
「ドラクエ」にせよ「FF」にせよ。
前途の「スーパーマリオRPG」にせよ。
ゲームによってステータスは割り振ったり自動で上昇したりと、上がり方は様々なのだが、上がる対象は大抵似たり寄ったりである。
その中でも特に「攻撃力」とか「力」と表現されるようなステータスは非常に多くのRPGで存在するステータスだ。
これはつまり
「モンスターを殺し続けると攻撃力が上がっていく」
ということになる。
通常であればプレイヤーはレベルアップを喜ぶものだろう。
長い経験値稼ぎに飽き飽きし「やっとか」と思ったとて、「レベルアップ」は「嬉しいもの」であり「ステータス向上」は「楽しいこと」の一つである筈だ。
少なくともわたしはそうであった。

さて「Undertale」(二回目)
Gルートを進めると、プレイヤーに操作されたキャラクターCharaは、どんどんと「EXP」を稼ぎ攻撃力を高めていく。
この伸び率は尋常ではなく、他のルートでは長期戦となり苦戦する終盤のモンスターたちを大体全部一撃で屠ってしまうほどだ。
ダメージの桁数もかなり多く、9999や99999でカウンターストップしそれより高い値を切り捨てる幾らかのRPGなどと比べる
と、異常な数値を叩き出しているといえる。
先ほども書いたが、元来多くのRPGでは
「数字が回り、桁や数字が大きくなることは良いこと」
であった。
ダメージ表示もその例外に漏れず
「ダメージを表す数値表示が大きくなる事は良いこと/嬉しい事/楽しいこと」
であった。
一般的には。
それまでは。
では「Undertale」ではどうか。
それを「恐ろしいもの」「悍ましいもの」と感じたプレイヤーや動画視聴は多いのではないか。
命乞いをする相手も、会話をしようとする相手も、お構いなしに攻撃するChara。
ダメージ表示は、いっそ異常性の、狂気の数値にさえ見まごうようになる。
そんなGルート。
最後は「世界」或いは「プレイヤー」をCharaが攻撃する。(恐らくは世界の方)

そしてダメージが表示される。

画面いっぱいに。
















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これは非常に強烈な皮肉、風刺であるとわたしには思えた。
同じように感じた方も多々いらっしゃることと思う。

そしてこの結末は、

プレイヤーが、

「できるから」

「モンスターを攻撃する」
「モンスターを殺す」

その果てに訪れたことである。

プレイヤーが

「できるから」
「ゲームだから」

「Charaという闇」

を助長させてしまった結果

「世界が終わった」

Charaの、いやプレイヤーの手によって。

◆ 句点は死にました ◆

「できるからやる」

至極当然のこと
あたりまえのこと
時と場合によれば正当な権利にさえ思う

しかしどうだろう
できるからやるを野放しにすることは
理性的な行動を採択できなくなる悪にさえ思われる

「食べられるから食べる」
「呑めるから呑む」
「吸えるから吸う」
「ヤレるからヤる」

酷く本能的なものがつきまとうような感じがするのはわたしだけだろうか

そして

「ゲームだから」

というのも危険だ

「ネットだから」

これに近いものがあるからだ

「ネットだから酷いことを言う」
「ネットだから強い言葉を吐く」
「ネットだから汚い過去を晒す」
「ネットだから好き勝手する」

これは非常に危険な思想ではないか

まあ、一部は、わたしのことなんだがな

「ゲームのシステムによって可能である」

というのは

「現実で物理的に可能である」

に近しいと思う。

誰しも他人を殺すことが「物理的に可能」ではないか。
道具や準備は必要かもしれない。
ただし「ゲームのシステム上不可能」なことのように、それは「物理的に不可能」なことではないように思える。

(勿論全身が不自由な人など、物理的不可能な人も中にはいらっしゃるだろうが)

「できるからやる」
「ゲームだから」

それはそういうことなのだと、
わたしは「Undertale」のGルートを観て強烈な衝撃と共に感じた。

しかし

わたしは

できるから

メンバーシップを

作った

わたしはできるからやった

自分の大切にする言い回しなどを無料公開した

わたしはできるからやった

自分が特定されかねない過去の情報や話題そして語彙を晒した

わたしはできるからやった

メンバーシップを作ることができるから作った

そして今日、その審査は無事通過してしまった

全く理性的であるとは言い難い行為の集合だ

この記事の公開自体、極めて理性的でない。

この記事で取り扱ってること、わたしが感じたこと。
そのどれもが「わたしを恨んでいる/嫌っているであろうある人物」にわたしを特定する要素となりえるからだ。

その人物はわたしの実名や顔を握っている。

このアカウントにはその人物には伝えていなかった「わたしの過去」が含まれている。

その人物がわたしのそれらの過去とわたしの個人情報紐つけてネット上に晒すことが

「できる」

できるのだ

「できるからやる」

かどうかはわからない。
それはその人物がわたしをどれだけ恨み憎しんでいるかの程度によるかもしれない
その人物が現状持っている良心や理性に依るかもしれない。

わたしはそれが恐ろしい

これは火に油だろうが書こう。

わたしはそれが恐ろしい

その人物のわたしに対する認識はわたしが最後に観測した時点で非常に悪いものであったことは明白だ。

だからその人物のわたしに対する認識が変化していない場合は

「できるからやる」

可能性があるだろう。

そして殺されるモンスターよろしくわたしにはそれを止める術はないのである。

では何故こんなことをするのか

「できるから」

である

全く理性的ではないと言わざるを得ない

わたしの頭はとうとうおかしくなってしまったようだ

今の日常にもう心底うんざりしているのだろう

安定がわたしにとって毒であることは前例により確かだ

であれば

「できるからやる」

その相乗でこの日々が終わるのはわたしが後悔したとしても
わたしが苦しんだとしても
何かの変化を齎すものかもしれない

わたしはだから

「できるから」

やってしまうのである

本当に愚かしい

如何に人生に於いて理性というものが大切かよくわかる
無関係な読者諸氏はこの教訓をどうか持ち帰り有効に活用していただきたい

理性的選択が人生を良くする

というような言説をわたしは先ほど述べた

それについてはこんな実験がある

マシュマロ実験、マシュマロテストと呼ばれる実験だ

これは自制心、先を見据えて現在の行動を抑制管理する力ないし習慣
それが人生をより思い通りにするために有用な能力|週間であることを物語る

子供にお菓子を

  1. 我慢して後で多くもらうか

  2. 今すぐ貰うか

を選ばせた

そしてその後の人生を追跡調査した

するとどうだろう

我慢して多くもらった方の子供の方が
ティーンの頃により周囲から優秀と評価されたり
大学進学適性試験であからさま高い点数をとったという

そしてその傾向は大人になる前の頃だけではなかった
もっと後に追跡調査してもその傾向は続いていたという

(仔細について気になる場合は各自調べてみてほしい。わたしはこれを書くに当たってさしあたりwikipediaのスタンフォード大学での実験の項やらを少し読んだ。そこでは自制心を「将来のより大きな成果のために、自己の衝動や感情をコントロールし、目先の欲求を辛抱する能力」としている。なるほど、的確に言い表している感じがする。因みにこの記事の初版では実験名や内容をうろ覚えのまま書いた為、以下では自制心という言葉は全然出てこず、「理性的に生きる」と少しぼやけた言い方になっねしまっていることに注意されたし。注意せずともよし。どっちでも。←こんなこと書いちゃうのも自制心?)

理性的選択こそが人生を思い通りにする
自制心だ

「できるからやる」

それは突き詰めれば殺人鬼の思想だ

「できるからって、やってはいけない」

それがこの世の、この社会の、基本的な秩序を保つための、「当たり前」であった筈だ

では何故それが「ゲーム」や「ネット」では
できないのだろうか

それが「リアル」ではないから?

「コンテニュー」や「ロード」によるやり直し
「転生」と呼ばれるアカウントやブランドの作り直し
そういったものでやり直せるから?

今までの自分の「汚名」や「失敗」
「経歴」や「立場」を度外視して
新しい自分としてスタートできるから?

では何故殺人鬼は「リアル」で「できるからやってしまう」のであろうか

わたしが一つ身近で理解できそうなものとしては

「我慢の限界」

であろう

わたしは騒音に悩まされている

もう何年も

何年も

きっと家賃十万とかの家や
学生寮にしか住んだことのない人には
わからないのだろう
そもそも一軒家であれば関係ない

わたしが嫌な騒音は
壁を叩く音

車の音
電車の音
隣が居酒屋でその騒ぐ声
自然の音

そういうものは気にならない

それによしんば気になったとしても
電車は深夜は動かないし
そもそも耳栓をすれば解決できる
からだ

しかし壁を叩く音は違う
出てしまう音ならば仕方ない
それは仕方ない

しかし違う

明らかに悪意を持ってなされる騒音

壁を叩く音は
音というよりも振動情報である

高い遮音性能の耳栓をしようが
その上から防音イヤーマフをつけようが
結局貫通してしまう
身体が振動を感知するからだ

わたしの騒音被害遍歴やその原因考察については過去に記事を上げているので詳細はそちらを確認していただければわかるが
わたしは今まで金銭的事情から決まって安い家に棲んできている
これにはそうなるに至ったありがたい「助言」がありそういうものがわたしの「助言嫌い」を産んでいるのは明白なのだが…
それもここではよいだろう

今の主題は

「できるからやる」

を殺人鬼がリアルでほんとにやってしまう理由

その理由としてわたしにとっては身近で理解しやすいものとしての

「我慢の限界」

の話だ

わたしは騒音被害について我慢の限界がきている

だから隣人に対して害意を抱くことは珍しくない

わたしは現在の日常に心底うんざりしており我慢の限界がきている

だからこのような自分にとって損となりうるような文字列すらネットにあげてしまう

「我慢の限界」は
「リアルに於けるできるからやる」の
理由として有力だ

では我慢の限界は何故くるのか?

それはもう、心理学やら犯罪学(?)の世界の話で、素人の知識で太刀打ちできるような命題に思えない

私見を申し上げればそれも「性格」次第であり、その性格は「生い立ち等環境」によって型作られる部分が大きい
故に結局のところ「環境と遺伝子次第」もっとシンプルにいうと「生まれ次第」というのがわたしの結論だ

現代風に言えば「親ガチャ」だが、「親ガチャ」だとその後の出会いや環境を重視していないように感じるので、寧ろ立ち返って「環境と遺伝子次第」の方が厳密であると感じた

ブッダが果たして王子として生まれず同じように生きれただろうか
イエスが果たしてマリアから生まれず同じような考えを持つに至っただろうか

わたしにはわからない
あなたはどう思うか?

仮に別の誰かから生まれたならばそれは彼らではないのではないか

現に彼らは史実に名前を残しており彼らはそこでうまれたのだ
そして彼らは史実通りかそれ以上の様々の事をして歴史に名があるのだ

という話になるとそれは脱線なので
やはりセンシティブな宗教関係の人間よりも
これは日本語で書かれている文章であるし
この日本の政治家や経営者の名前を出そうか

誰でもいい
田中角栄でも
松下幸之助でも
豊田喜一郎でも
柳井正でも
藤田晋でも
宮本茂でも

彼らが異なる遺伝子や環境のもと生育した場合に今と同じ結果を出せていたと断言できるもののみ本来自己責任論を振り翳すべきである

故にわたしは犯罪者やネットで小馬鹿にされる晒された人々を手放しで言いたい放題する態度があまり好きではない

わたしの兄はニュースの犯罪者や映画の登場人物にさえ簡単に「クズ」だのそういう断定を行った
わたしはそれが嫌いだった

わたしが施設警備をしていた時にいた太りまくった柔道経験者の四十代の坊主頭はとあるニュースの「世間が悪い」という犯罪者の言葉に対して「ふざけんなよ、お前が悪いんだろう!?」とその後も口汚く罵る言葉を吐いた
わたしはそれが嫌いだった

しかし恐らく世間の人々の多数はこいつらのような考え方なのだろう
わたしはそれを遺憾に思う

因みにこれは昔々わたしが勘違いしていたことだが
遺憾には憤る意味合いは原義的にはないっぽいよ
残念に思うぐらいの感じ
じゃあ残念に思うって書けって思った?
そうだね
最初はそう書いて
でもこのくだりを書きたかったから態々遺憾と書いた
わたしはご覧の通り短文指向ではないのでね

話が逸れに逸れているがそれをもう着地点としてしまおうと思う
つまり


自己責任論は懐疑を忘れし考えなしの論法

わたしはこう言いたいのかもしれない常に

できるからやる

それをしない為にどうすればいいか
これを最後に書こう
つまり

理性的に生きる方法

すでに述べた通り「遺伝子と環境」が殆どのことを決定してしまうことは織り込み済みの上で、その上で尚どうするか

わたしには正解はわからない

けれど仮説を立てることはできる

・報酬系を使った条件付け

理性的な選択ができた場合に報酬を与えるようにし条件付けしていく
しかしそれを自分一人でやろうとするには理性的な選択が必要なので循環的矛盾が発生する
なのでこの方法は親身に手伝ってくれる理性的な人間がいる場合に限定される
やはり環境
おっとそれでは身も蓋もなくなってしまう
別の方法を考えよう

・理性的な人間と共に過ごす
前項と同一の理由により、次

・この情報を知っておく
理性的選択によるメリットと「できるからやる」ことによるデメリットを把握しておくことで心理的ブレーキの効きの向上をきたいするというわけか
うーんなんかパッとしないね?

・理性的になれる成分を摂取する
人間の脳はさまざまな成分の影響を受ける
カフェインやニコチンやら
であるからして理性的になれる成分を摂取すればいいのではないかという物理的発想
アヤシイオクスリでなくとも何らかの食べ物に含まれる化合物がなんやかんやして作用していい感じに理性的になれない?というわけでこれに関連する次

・理性的になれる方法を模索する/し続ける
つまり検索したり試してみたりということ
理性的になることに限らず「こうなりたい」があるならば大体これなような気がする
自分で調べて、知って、決めて、試して、鑑みて、自分にとって有効な方法を発見していく
なんか偉そうな感じになってきたな
元から?
知らんけど

何度も書いてきたように

今のわたしは理性的ではない

だからこんなにも長い記事をしたためてしまった

この行為に対して金銭的報酬は発生しておらず商業主義的に言えばこれは「無駄な行為」に他ならないだろう
そればかりかわたしにとって不利益をもたらす可能性がある記事なのでこの文字列をこさえるにあてたリソースは全て無駄どころか負の結果への投資となってしまうかもしれない

だがわたしは理性的でないのでそれをサンクコストを呑んでボツにするということができない

没にすれば無駄で済む

しかし理性的でないのだ

できるからやってしまうのだ

なんと愚かしいことだろうね

というところで締め括ろうではないか

ご閲覧、ありがとうございました

などとはボクは絶対に言いません

理性的じゃないからあの人のモノマネをしちゃう

好きって理性的じゃないよね

よくないねェ

なんだろうね好きって

わかんないね?

じゃあね


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