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「ドキリとする冒頭」どう書きますか?

 何事も始めが肝心。いいえ。始め「こそ」肝心です。出だしよければ全て良し、とまでは言いませんが。それほど出だしは重要です。

 小説に問わずオールジャンル。もちろんブログも兼ねて読み物というものは冒頭で、その後の読み込みが雲泥の差です。冒頭で引き込まれない文章はその瞬間にて読者に見放されてしまう。猫目はそんな恐ろしいことを第一に、とくに小説を書くときには細心の注意は払いたく思います。

「魅力を感じる冒頭、あなたは書けていますか?」

 この言葉が降ってきたのは寒空の昼下がりでした。猫目は当然ドキリとしました。ひやひやです。そもそもドキリとする冒頭とは、いったいどのような冒頭を言うのでしょう?小説にカスタマイズして例をあげます。

①『私は、犬に就いて自身がある。いつの日か、必ず喰いつかれるであろうという自信である。私は、きっと噛まれるにちがいない。自信があるのである。よくぞ、きょうまで喰いつかれもせず無事に過ごして来たものだと不思議な気さえしているのである。諸君、犬は猛獣である。/「畜犬談」太宰治 著』

 最高だ。犬に自信があると思いきや、まさかの「そっち(犬に喰いつかれる)の自信か!」と自然口角があがってしまう。太宰の冒頭はどきり、と心が動かさせる上にユーモアのスパイスが効いている。

①ーb
『どんな小説を読ませても、はじめの二三行をはしり読みしたばかりで、もうその小説の楽屋裏を見抜いてしまったかのように、鼻で笑って巻を閉じる傲岸不遜(ごうがんふそん)の男がいた。/「猿面冠者」太宰治 著』

 たった今この記事を書いている猫目を、いちばんドキリとさせた冒頭であることは間違いない。無論鼻で笑ったことはないが。

②『山路を登りながら、こう考えた。
 地に働けば角が立つ。情に棹されば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る。/「草枕」夏目漱石 著  

 なんと美しい冒頭だこと。人間の真理がこの冒頭に見事凝縮されています。この続きがまた興味深い。人の世界で生活している限り、どこへ越しても(環境を変えても)住みにくい、その行き詰まりこそが詩や画といった最高峰の芸術を生むのでしょうか。芸術とは何でしょう?

③『確かにつぐみは、いやな女の子だった。漁港と観光で静かに回る故郷の町を離れて、私は東京の大学へ進学した。/「TUGUMI」吉本ばなな 著』

 この冒頭にどきり、とするのは猫目だけでないと思います。「いやな女の子」を自分の中に一人見つけている人間ならば当然、どきりとする巧みな冒頭です。この冒頭を読んだ猫目は悪い女の子を一人宿している自己の中に疼くものを感じました。そうして『つぐみ』を知りたくなる。彼女と友達になれたらいい、なんていう高揚感を、このたった一行の冒頭で抱きました。

④『TVピープルが僕の部屋にやってきたのは日曜日の夕方だった。季節は春だ。/「TVピープル」村上春樹 著』

 「TV」も「ピープル(人・民衆)」も私たちが知っている単語です。が、それがどういう人物で、どこの誰だかは知りません。ここに物語最大の謎が発生ます。読者は先を読みたくなります。気になります。

巧なのは、それら一点の謎を除けば、他は「日曜日の夕方」「僕の部屋にやってきた」「春」という細やかな情報により、読者のイメージは鮮明に輪郭を造形し始めます。

 このように冒頭に謎を組み込むことで読者はぐんぐん物語へ足を踏み入れていきます。そこには読者の「知りたい」という探求心をくすぐる優れた手法が垣間見えます。すばらしい。

共感がなければ「ドキリ」を発動できない?

 たとえば或る小説で、以下のような二つの冒頭があったとします。

例A
『 何もかも終わる。
 薄暮を知らせる斜陽と鴉の鳴き声を合図に、浅倉は路地裏に身を滑り込ませた。彼はこの逃走劇が成功する気配をひしひし胸に感じていた。しかし偶然にもそこは袋小路だった。すぐ後ろに追手は迫っている。浅倉の心臓は追手の足音に同調するように激しく波打つ。』

 上記の文章では「夕方」という時間に主人公の「状況」が読み取れる。では次の例ではどうでしょう?

例B
『 何もかも終わる。
  煌煌と光の伸びる中、エデンダーの音を合図に、浅倉はデッドタウンに身を投げ入れた。彼はこのノークレイドフィナーレが成功する気配を胸に抱えてシークトレインにひしひし笑みを洩らす。しかしシークトレインはアンデッドだった。アンデッドのすぐ後ろに追手は迫っている。ロックダウンを手に構えると彼は、すぐさまアレントバーを引いた。』

 正直・・・なんのこっちゃですよね(ここまで不可解だと逆に多様な想像が浮かぶかもしれませんが)。それにしても用語や意図がまったく理解できない。おそらく作中で出てくる、なにかしら重要な用語なり武器なのでしょう。もしも冒頭の二三行がこんな文章だったら・・・

いったい何のことを話しているのか。
何を伝えたいのか。

 まったくもって不明です。さて読者はこの冒頭二三行で頭を悩ませ、その場に留まってくれるでしょうか? いいえ。猫目なら表紙を閉じてしまいます。作中どんなに親切丁寧に物語を展開されていても、この時点で読者にとっては大きなストレスです。哲学書なら未だしも、明らかに娯楽を要している小説ならば、冒頭から読者に頭を捻らせてしまうのは不親切と言えるでしょう。もちろん理解できる謎ならそそられますが。

 冒頭でどきり、とする文章を書くのは理想ですが、それ以前に「親切さ」は外せません。というよりも、共感(または共通)する部分を描かなくては読者はその画を鮮明に思い描くことができません。

 知らない単語や用語を用いて冒頭から迷宮化してしまうのは不親切です。

 「A」の文章。「薄暮」も「鴉」もまず知らない人は居ないでしょう。「路地裏」もその先に待ち構える「袋小路」も同様です。

 それらが「B」の文章では「エデンダー(の音)」とあります。エデンダーの音がなにか、猫目は無論知り得ませんが、なにかしらの音が、なにかしらから聞こえている、のでしょう。さらに。

 「デッドタウン(に身を投げ入れた)」とあります。どういう事ですか?デッドタウンとは何ですか?なにか街のような名称ではありますが?ここまでくると、もはや読者による理解の追随を、作者自身が許していない気すらします。

 「ノークレイドフィナーレ」も「シークトレイン」も「アンデッド」も「アレントバー」も。猫目にはいったい何のことだか、さっぱりお手上げです。

 それでも何となしに「B」の文章でも意味が通じるものがあるとするなら、それは既に皆さまが「A」の文章を先に読んでいるからと推測します。または超越した豊かな想像力の持ち主か、そのどちらかでしょう。

もちろん

 すべての創作物には「意図的」「潜在的」手法を用いる場合もあります。その場合は作者の意匠なのでそういう特別な場合は例外です。しかし猫目のような初心者には、やはり「どきり」とする冒頭は必須条件であるように思います。基盤は揺るがない方がいい。

冒頭に「?」という疑問を組み込むことも大切だ。
たった今、これらの文章を綴っていて再認識しました。

疑問があれば先を読みたくなる。人間の心理を突いています。

以上、冒頭の数行を猫目は研究しています。どきり、とする冒頭文が一番理想です。しかしこれがなかなか難しい。






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