24.5月チェロ先生の家
ゴールデンウィークのある日、先生に遊びに来ないかと誘われた。
私はいつものように上がり込むと、ダイニングへ入った。
はめ込み窓の向こうには、遠く海が見える。
「良い天気ですねー。貨物船が航行しているのが見えます。」
「お前、相変わらず目がいいな。」
と先生。
私は子供の頃から遠視ぎみである。
ダイニングテーブルにケーキの箱を置いた。
「今日は私の誕生日です。」
「知ってるよ。」と先生。
「だから今日を提案したんだけど、本当に来ると思わなかった。てっきり家族で過ごすのかと。」
「もう、家族でお祝いな感じではないですね。今日は家族それぞれ出掛けていて、家には誰もいません。ケーキ食べるの、付き合ってください。」
「それは、夕飯どきに家族で食べるのではないの?」
先生、戸惑い気味。
「アイスが食べたいんだって。だから、ケーキはセンセと食べます。」
私はケーキの箱を開けた。
「コレはですねー、フルーツパーラーのイチゴショートですよ。絶対美味しいやつです。お値段もいいから、家族分買うことはできないんで。
自分の誕生日に食べると決めてたんです。」
イチゴがまるで宝石のようにキラキラしている。
「コレは立派だねぇ。間違いなく美味しいやつだね。」
ホクホクする先生。先生は甘党だ。
「ボクもケーキ買っておこうかと思ったんだけど、夜のことだから自分の食べたいものを持ってくるだろうと思って。
じゃあ、ボクは紅茶を淹れよう。」
私が自分の誕生日を知ったのは、かなり大きくなってからだった。
教えてくれる親はいなかったし、誰かにお祝いされることもなかった。だからと言って不思議と困ることもなかった。
聞かれれば、当てずっぽうな日を答えていた。
知ったのは、進学のために戸籍を見たからだ。
先生はとっておきのティーセットに、とても香りの良いお茶を淹れてくれた。
ケーキは、甘さ控えめのクリームとスポンジがイチゴの甘さを引き立てていて、贅沢な美味しさだった。大きかったけれど、ペロリと平らげた。何なら、もう一つ食べられそう。
ティーセットと一緒に写真を撮らなかったことが悔やまれる(食い意地が邪魔をした...)。
「合宿、どうだった?」
少し前に、私が所属するアマオケの合宿練習があった。
「次に代表になる方と、コンマスと、指揮者のH先生とたっぷり話をしてきました。」
先生、ちょっと驚いた。
「コンマスと?お前と折り合いが悪いんじゃなかったっけ?」
私、うなずく。
「はい。でも今回話してみてわかりました。悪い人じゃなかったです。コンマス自身、年配の団員の方々に振り回されて苦労しているようです。
次期代表のSさんは私と同じく左利きで、何とH先生もコンマスも左利きでした。左利きあるある話で盛り上がりました。」
「Hさんは?お前の楽団の棒振りやめるって言ってなかった?」
H先生、先日先生にそうもらしていたらしい。
「センセにそう言われていたので、てっきり今回の合宿で宣言されるのかと思っていたのですが。何の話もありませんでした。帰り際『夜さん、また飲もうよ』とまで言われました。どこまで本当なんですかね?わからなくなりました。」
「そうなの?」先生も首を傾げた。
「合宿は夜中まで初見大会して楽しかったですよ。H先生もピカピカのクラリネットで参加してくださいました。遅くまでやり過ぎて、結局宿泊施設の方に終わりを告げられてしまいました(笑)。」
「ははぁ。Hさん、そうやってみんなでワイワイするの好きなんだねぇ。知らなかった。」
★
先生は、約半年前に亡くなったお父さんのことで再び悶々としているようだった。
「お父さんは余命宣告されていたんですから、センセが抗生物質投与を選択したために死期が早まったわけではないです。」
「そうだろうか…。」
先生、浮かない表情。
「そうですよ。余命3週間と言われてから何年も生きながらえた例を私は知りません。どのような選択をしても、お父さんは残念ですが長くはありませんでした。
亡くなる二週間前にお父さんが願った温泉旅行へ行けたのでしょう。それだって十分奇跡です。」
私はまだ仏壇にある遺骨の隣に飾られた、お父さんと先生が宿のご馳走を囲んで乾杯している写真を見た。
「前にも言いましたが、人にはそれぞれ寿命があります。医療はその人の生命力を底上げしているだけです。お父さんは寿命です。センセのせいではないです。」
「夜が言っているのは、『神様のカルテ』のこと?」
そんな題名の小説があったな。
先生はそれを読んだのか?
私が黙っていると、先生はチラッとダイニングのカウンターを見た。
私は立ち上がってカウンターへ行った。
そこには10冊以上、文庫本が積み上がっていた。
手に取ると、医者が主人公の小説やノンフィクションばかり。
「外科医 島へ」があるのは、以前私が3年ほど離島の診療所で働いていたからか?
私が先生を振り向くと、
「医者の仕事って、想像以上に大変なんだなぁ。」
と、先生がポツリと言った。
「私は自分の仕事に関係する小説やドラマや番組を見ません。実際とどこまで近いのかは、わかりません。」
先生、私のことを知ろうとしている?…きっと答えてはくれないだろう。
「こんな私ですが、仕事はキチンとしています。自分で言うのも何ですが、患者さんやご家族からも一応は信頼されているんですよ。自己研鑽も欠かしていません。だから、私の言うことを信じてください。センセの心の隙に入り込もうとする根も葉もない他人の言葉に耳を貸さないでください。」
気持ちの弱っている先生に何か吹き込んだ人があったのかもしれないと、私は想像した。
先生は考え込んでいたが、私がそう言った後にフッと笑んで大きく伸びをした。
「そういう話、久しぶりにできてスッキリしたよ。聴いてくれてありがとう。」
★
私が先生宅へ訪れた目的は、ケーキを食べるためだけではない。
お手洗いを借りた後、隣のレッスン室の扉を開けた。
「あー、まだ全然片付いていない。」
少し前のレッスンで、先生は自宅レッスンを再開すると話していた。仕事帰りに寄りやすい自宅レッスンを、私は是非にとお願いしていた。
先生は、近日中に荷物置き場となっているレッスン室を片付けておくと約束した。
約束を反故にするのではないかと、確認する目的もあった。
「ごめん、ごめん。6月にはできるようにするから。」
先生、苦笑い。
「わかりました。いいですよ。5月は泊まり込みの出張が2本入っていて忙しいですし。」
「忙しいのか。」
「レッスンに向けての練習時間は何とか確保したいんですけどね。オケの本番もあって、思うようにいきません。」
「レッスンで練習すればいいよ。レッスンに来て開口一番『練習できませんでした』っていう生徒も多いよ。」
「せっかく先生に見てもらうんですから、私は準備をして臨みたいんです。」
「意気込みだけは認めるよ。」
先生は私の頭をくしゃくしゃにして笑う。
「6月には自宅レッスンできるようにしてくださいね。そのほうが先生だって楽になるでしょう?」
先生自身が出かけなくてよくなるから。
「最近はレッスン自体はそんなに大変じゃないんだよ。みんなある程度レベルが上がって、教える内容は多くないから。弟子が勝手に弾いていればいい。初心者に教えることになったら大変。気が抜けない。」
「そういうものですか。」
「そういうものだよ。お前のレッスンは気遣い要らないから特に楽。夜は勝手に弾いて、ボクは好きに喋っていればいい。」
「ええー、ひどいですね。コッチは真剣なのに。」
ハハハ、と先生が笑う。
なんだかんだ言っても、お互い楽しければ、それでいい。
今度はレッスンで会いましょうと言って、先生宅を辞した。
帰ったら、早速チェロ練習しよう。