24.7月チェロレッスン②:レッスンに集中できなかった...。
「お前のオケ、今度ピアソラの『ブエノスアイレスの冬』やるんだって?いいなぁ!大好きだよ。」
レッスン前、先生が珍しく興奮気味に話してきた。
「はい。カッコいいですよね。私も大好きです。」
ピアソラ。
昔、サントリーのCMでヨーヨー・マが「リベルタンゴ」をチェロで演奏していたのは有名だろう。
以前、先生はアンサンブルコンサートでピアソラの「フーガと神秘」を演奏した。弦楽五重奏。
曲の途中、足を踏み鳴らしたり、チェロの側面を手のひらで叩いたりといった演出が楽しかった。
先生とピアソラ、めちゃめちゃ似合うと私は思う。大人の男性の色気?を感じる。先生がタンゴを踊る姿を想像して(先生、実際はダンスはしない…)、思わずムラムラしてしまった。
「ん?どうした?」
私が上の空になったのを見て、先生が言った。
落ち着け、私!
「いえ、なんでもありません!準備できました。レッスンお願いします!」
私が勢い込んで言ったので、先生は面食らっていた。
★
音程を確かめるために、初めにスケールを弾いた。
「うわー、音でかいよ。」
と言われる。
「え?そうですか?前のレッスンで側鳴りって言われたから、その後のオケ練で4時間思いっきり弾いてきました。」
1ヶ月ほど全然練習していなかったため、楽器が拗ねて音が出なくなったのだろうと前回のレッスンで言われていた。
「確かに2時間くらい大音量で弾いてこいって言ったよ?その結果がコレ?うるさいくらいだよ。
この音量でオケで弾いたら迷惑だよ。控えめにしなさい。」
音量足りないって言ったり、うるさいって言ったり、忙しないなぁ。
「じゃあ、普通に弾くようにします…。」
…言ったものの、普通の音量って何だ?
★
「最終確認だけど。発表会の曲、バッハ無伴奏5番プレリュードでいいんだね?エレジーは弾いてみた?」
前回のレッスンで、発表会の曲候補としてフォーレの『エレジー』の楽譜をもらった。
「はい。3ヶ月で仕上げるのは難しいとセンセが言った意味がわかりました。クライマックスに入る直前のところが一番難しいですね。でも、弾いてみると、この前オケでやったブラームス3番4楽章の途中よりは出来そうな手応えを感じました。」
先生「ほう。」と言って、ニヤリとした。
「エレジーね、お前より年齢も経験も年上の弟子たちの何人かにも教えたよ。発表会で弾くことを勧めたけれど『レッスンで十分です』と言って、みんな逃げたよ。経験があっても、気力がないと避けたくなる曲だね。」
「私は逃げないですよ。気力は十分あります。」
先生に不敵な笑みを返した。
先生、笑った。
「いいね。じゃあ、エレジーにする?」
私、チェロを抱えてウ〜ンと唸った。
「集中的にやり込めば出来なくもないと思います。ただ…今からエレジーに取り組んで本番を迎えるか、ほぼ完成に近づいている5番を3ヶ月後に本番で弾くか、どちらを取っても、とても怖いことには変わりがないです。」
先生、ステージで5番プレリュードを弾くのは難しいと、ずっと言っている。
実際、ステージでやるつもりで通して弾いてみても、ピアノ伴奏なしで長い曲を作り上げる難しさを感じる。
「夜の言わんとするところは、よくわかるよ。」
「それに、今から弾き始めるオケの『チャイコフスキー/弦楽セレナーデ』と同時進行でエレジーを練習するのは、かなりキツイです。」
「そうだなぁ。チャイコの弦セレはキツイな。夜がそこまで言うならよし。5番でいいよ。」
先生も覚悟したようだった。
★
そんなことで、今日からはステージで弾くための曲作り。
この曲を弾く私をステージに上げるために教えるのは、先生も大変だろう。
「44小節のEナチュラルの音程が僅かに低い。43のE♭とハッキリ区別しなさい。臨時記号はとても大事。」
先生の指摘がかなり細かくなってきた。
先生、高い完成度を目指しているな…ますます本番が怖くなってきた。
「118小節から124小節の部分。バッハの音の作り方が気持ち悪いんだよなぁ。変なところでナチュラルが入っていてモヤモヤする。」
バッハ大先生の作曲に疑問を呈する先生。
「129からを盛り上げるために、ワザと音を曇らせた、とか。」
「そういうことではないと思うんだけど。」
「じゃあ、写譜した人が間違えた、とか?」
「あり得るね。ボクだったらこうするな。」
先生、パラパラ弾き出した。
「そうですね。そのほうが明るい光が見えます。」
「だろう?バッハ、時々、なぜここでこの音?みたいな作り方するんだよね。」
先生と曲について議論するとか、遊びで編曲するとか、そういったことが私には楽しい。
居候していた頃は、先生との夕飯どきの話題だった。
レッスンはそのほか、
・19小節を弾くときの弓使い
・79〜88小節までの表現を作り込んでくること
・109からの部分の音が濁りやすいので、左肘の位置に気をつけること
を指摘された。
★
「エレジーって、フランス語で『哀歌』という意味ですよね?私には女性に振られた男性の慟哭に聞こえるんですよ。」
レッスン後、片付けながら私はそう話した。
へぇ、と先生が頷く。
「エレジーってアメリカ映画が昔あったね。」
「そうなんですか?恋愛映画でしょうか?
チェロで歌うからかな、男性の嘆きにしか聞こえません。女性は男性に振られても、こんなこの世の終わりのような嘆き方はしないと思うんです。少なくとも私は。
と言っても、今まで男性を自分から好きになったのは一度だけだし、振られたのも一度ですが。」
ジトっとした視線を先生へ送った。
私を振った張本人はたじろいた。
「お前、今日なんか変だよ。何となく顔も赤いし、熱でもあるんじゃないの?」
先生が心底心配そうに、私のほうに寄って来て、いつものように私の額に手を伸ばしてきた。
「触んないでください。」
と私が強く言ったものだから、先生は明らかに狼狽した。
いつもはOKなものを拒否されれば、当然戸惑う。
先生と私の間が一瞬にして凍りついてしまった。
咄嗟とはいえ、言い方が悪かったと思い、謝った。
「スミマセン…ほら、センセ、前に私のうなじを見るのがダメだって言っていたでしょ?今の私はソレと同じです…。」
先生「ええ?!」と驚き、先ほどとはまた違った戸惑いを見せた。
「発情期の猫かい…。」
先生、盛大にため息をついた。
「だって、仕方がないでしょう?ヒトだって動物です。」
「それはそうだけど。」
「三大欲求はどうしようもないですけれど、私にだって理性はあります。理性で抑えてるところに踏み込まれると困る、という話です。」
淡々と説明した。
自分の椅子に座り直した先生、困ったように答える。
「それもわかるけど。それにしたって、そういうことをあからさまに話すかなぁ。」
先生、呆れてる。
「センセも前に正直に話してくれたから話すんです。よその男性にはこういったことは言いませんし、私だって誰でも良いというわけではありませんから、安心してください。」
「安心って…妙な話になったけど、ボクは何て答えればいいの。」
「『わかった』って言えばいいんです。ということで、理性のあるうちに帰ります。」
私、立ち上がってチェロケースを背負った。
「気をつけて帰りなさいよ。次回のレッスン日はLINEするから。」
ぎこちなく言う先生。
「アイス食べて頭冷やしてから帰ります。ありがとうございました。」
私はそう言って、レッスン室を後にした。
狼狽した先生、かわいかったなぁ…って、いかんいかん。私の思考回路はもうバグっている。