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日常雑記:先生のお父さん。

イルミネーションが街を彩り、クリスマスソングがあちこちで聞こえてくる頃。
チェロ師匠から電話があった。

「今仕事中?」
「いいえ。さっき帰って来て、今自宅です。昨夜宿日直だったので。」

仮眠する時間もないほど、忙しい晩だった。
流石に疲れて、残業をせずに帰ってきた。
太陽の見える時間に帰宅できたのは、いつぶりだろう。チェロを練習しようと、準備中だった。

「そうか。
夜、お願いなんだけど。
12月のレッスン、ナシにしてくれないか。」

そう言う先生の口調が暗くて、只事ではないと感じた。

「もちろん、構いません。
センセ、何がありました?」

「父が亡くなった。」

…息を飲んだ。

「いつ?」
間髪入れずに、私は言った。

「今朝早くに。」
「センセ、今どこですか?私もそちらに行きます。」
「疲れてるんだろう。」
「いいえ、大丈夫です。」
「いや、来るな。よく休みなさい。こちらはこちらで、今から決めることが色々あるから。」
「お通夜とお葬儀が決まったら、教えてください。」
「わかった。」
「センセの本番は?明日でしょ。」
合唱付きの第九の公演。私もチケットを取っていた。
「乗るよ。」
「そんな…。」
こんな時に。
「でも、トップはMさんがしてくれるから。」
良かった。
「じゃあ、また連絡するよ。」

通話が切れた。

可哀想な先生…。
私はやろうとしていたオケの楽譜を閉じて、バッハの無伴奏の楽譜を開いた。
亡くなったお父さんと、先生のために、レクイエム代わりの3番サラバンドを心を込めて弾いた。

           ★

先生のお父さんは、先生が音楽の道へ進むのを一番応援していた人で、先生の一番のファンだった。
私も何度かお会いしたことがある。
とても優しくて、身寄りのない私のことも気にかけてくださった。

数年前から闘病中だったことは、以前先生から聞いていた。でも、今は落ち着いて日常生活が出来ているとも聞いていた。

「夜、先生のお父さんが入院したこと、知ってるか?」

工房の職人のお兄さんが私にそう言ったのは、残暑がまだまだ厳しい頃だった。

「知らない。センセが言ったの?」
私に教えてくれないなんて。ショックだった。

「そう。夜には言っていないんだな。知られたくないんだろう。先生が自分から言い出すまで、知らないフリをしていて。」
「わかった。そのかわり、センセが話したこと、その都度教えてね。」

そうは言ったものの、レッスンで顔を合わせると、お父さんの容体を聞きたくて仕方がなかった。
でも、レッスンをしている時の先生は楽しそうで、尋ねるのは憚られた。


11月下旬、お父さんは元気になって退院したことをお兄さんが教えてくれた。
お正月は家族そろって迎えられるのだなと、うれしく思ったのに。

          ★

「医者と音楽家は親の死に目に会えない。」

そう言ったのは、大学在学中、研修でお世話になった同じオーケストラサークルの先輩だった。
当時、私には家族親族がいなかったから、自分には関係ないと思っていた。

4年前、ダンナが事故にあった。
搬送先の知り合いの担当医が、私の職場に直接電話をくださった。
でも、私は仕事から離れることが出来なかった。
看護師さんにスマホをスピーカーにして持ってもらい、担当医と話をした。

入院したダンナの元へ行けたのは、翌日の明け方近く。
ごめんなさい、と涙ぐむ私に、ダンナが

「夜はそういう仕事をやってるんだってわかってる。お疲れさま。心配かけて、ごめん。」

パンパンに腫れた顔で、ダンナは微笑もうとした。
布団から出してきた右手を、私は握った。
家族を持つことへの覚悟が足りなかったと、この時初めて思い知った。

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通夜は明後日、葬儀は明々後日に決まったと、先生から連絡があった。
先生のお母さんはすでに亡くなっている。
だから、喪主は先生。

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先生から連絡があった翌日の第九演奏会。

先生も昔、出演が決まっているステージには自分自身に何かない限り、急に降りることは許されないと言っていた。

トップサイドに座った先生が、遠目でもやつれて見えた。
第九は慣れているからキチンと演奏はしていたけれど、いつもより覇気がなかった。
先生の代わりにトップを務めたMさんが、先生の分までカバーしているように見えた。

歓喜の歌なのに。

私は祈るような気持ちで演奏を聴いた。

           ★

やっと先生に会えたのは、演奏会の翌日のお通夜だった。

会場に到着した頃には、弔問客がほとんどいなくなっていた。

先生は、親族控室にいた。

私に気付いた先生が立ち上がって
「夜。本当に来たのか。無理するなって言ったのに。仕事はどうした。」
と驚いたように言った。

同じ部屋にいた親族の方は、私に軽く礼をすると、気を利かせて部屋から出ていった。

二人きりになったところで、私は先生に抱きついた。
「仕事はちゃんと終わらせて来ました。」
先生を抱きしめたまま、私は言った。
「家のほうは大丈夫なの?」
「センセのそばにいてあげなさいと言ったのは、ダンナです。」

私の肩を抱くように腕を回した先生、
「父のこと、黙ってて悪かったね。」と言った。

「お兄さんに聞いて、知っていました。無事退院したって聞いていたのに。」
「一週間前に、急に容体が悪くなったの。」
「ここに来る前に、お父さんに会って来ました。」
「うん。ありがとう。」

私は離れて、改めて先生の顔を見た。
まともに寝ていない顔色をしていた。

「お惣菜たくさん作って、冷蔵庫と冷凍庫へ入れてきました。しばらくそれで食べられると思います。」
自分で作ったり買ってきたりしなくていいように。
先生が微笑んだ。
「ありがとう。助かるよ。」


二人で椅子に座った。
先生がテーブルにあったペットボトルのお茶をくれた。

「レッスンできなくて、申し訳なかったね。」

私、ブンブンと首を横に振る。

「そんなの、別にいいの。」
「1月には、またレッスン出来ると思うから。」
「ええッ?!」
「でも、倒れたらゴメン。」

先生が私に弱音を吐くことは皆無だ。
よっぽど参っているのだと、私は瞬時に判断した。

「センセ、倒れちゃダメ。そうなる前にちゃんと休まないと。私のレッスンなんて、後回しでいいから。」

先生、力なく笑んだ。
「悪いね。でも、第九終えたから、年末年始はゆっくりできるよ。」
「うん。ゆっくりして。私はセンセに教わった通りに自己練習するから。また連絡します。」
「落ち着いたら、僕から連絡するよ。」
「じゃあ、待ってます。」

立ち上がった私に、先生は軽く手を振ってくれた。
私も振り返して部屋を後にする。



先生が休んでいる間、私は練習をたくさんしよう。
無伴奏5番は、課題の4ページとは言わず、最後まで弾けるように。
オケの曲だって、首席代理を務められるほどになるまで。
「Kさんの弟子は頼りになる」って、オケのメンバーに思われるくらいに。


外の空気はキンキンに冷えていた。
信号待ちの間にふと空を見上げると、暗闇に浮かぶ月と金星が冴え冴えとしていた。