見出し画像

7月チェロレッスン①:“happiness”

「夜先生は頑張りすぎですよ。」
研究の進捗状況を報告した後、上司にそう言われた。
頑張りすぎ?私はやるべきことをやっているだけなんだけれど。

疲れが溜まっている自覚はある。
仕事に行くのが辛い。何か嫌なことがあるわけではないのだけど。

仕事の帰り道。
車の中でFMを聴いていた。
嵐の“happiness”が流れた。

学生時代、みんなで歌ったなぁ。
先が見えなかった頃、歌詞に励まされた。

と、思い出していたら、涙が出た。
家に着くまで涙が止まらなかった。

★★

7月最初のチェロレッスン。

「私、今、オケが辛いです。」
楽器を準備しながら、私は先生に言った。
数ヶ月前に先生に「今度オケやめろって言ったら、私は泣く!」と言った私だったが。

先生は首を傾げた。
「そうなの?」
私は大きくうなずく。
「来週の本番、早く終わってしまえ、と思ってます。」

弓に松脂を塗りながら、
「昨日、上司に仕事の進捗を報告したんです。
そうしたら上司、私に向かって“頑張りすぎだ”って。私はやるべきことをやってるだけです。何を頑張りすぎているのか、ちっとも分かりません。でも、確かに疲れが溜まってて、かなりしんどいです。」と言った。

先生、訳知り顔に「だろうね。」と言った。
「え?センセは私の仕事見てないのに、分かるんですか?」
「分かるさ。」
「なぜです?」
「チェロ的に。」
先生、ニヤリとする。
「何ですか、そのチェロ的って。」
「弾いてるお前見てれば分かるってこと。」

先生、左手で弓を弄びながら言う。
「何かを始めようとする時、石橋を叩いて確かめて渡る人っているだろ?お前はまずはやってみようって、石橋を叩くことをしないで渡るタイプ。
大抵の人は危なそうと感じた時点で引き返す。
お前は危なそうでも無理矢理何とかしてしまうもの。しかも、何とかなったものの、引き際が分からない。何とかなった分、さらに高みを目指そうとしてしまうの。
無理矢理やる分、それと高みを目指しちゃう分、頑張りすぎて疲れるの。」

私、ポカンとする。
言ってること、当たってる。

「石橋を叩く叩かないは、生まれ持った性格だからどうしようもないの。自分の引き際がどこなのか、経験で学ぶしかない。」

「センセすごい...さすがオビワン。」
「そうか?」

「オケも、運営に目をつぶってただ弾くだけの人だったらいいんですが。納得できないことがたくさんあって。」
「でも、何言ってもダメだったんだろ?」
「何で分かるんですか。」

「学生オケはメンバーの年齢が近しいから、意見を出し合ってぶつかり合えるんだよ。
お前の楽団、年齢層が高いだろう?歳を取るとね、色々面倒になって、新しいことを考えるのが面倒になるの。しかも、逃げるのが上手い。」

「言ってもムダだから、目をつぶれって?」

先生、軽く笑う。
「夜はまだ若いからなぁ。理解できないのも無理ないけど。ぶつかっても疲れるだけだよってこと。自分に気力のない時には、大人しくしておきなさい。」
「そんなこと言ってるセンセが歳取ってるみたい。」
先生が苦笑する。
「経験と言ってもらいたいけどね。僕も学生だった時があったんだよ。調律できた?A(の音)ちょうだい。」

★★

10月の発表会曲の検討をする。

私が提案したのは”バッハ アリオーソ“。
先生が提案したのは”バルギール アダージョOp.38“

「アリオーソは最初の繰り返しを装飾音付きにした方がカッコいい。僕の送った楽譜は見た?」
「はい。」
「音源は聴いたと思うけれど、実際弾いているところを見た方がいい。
2曲弾くから、見て。」

先生は最初にアリオーソ、続いてアダージョを弾いてくれた。
うわー、上手すぎる。

「アリオーソはビブラート練習のために生徒に弾かせるんだけど。夜はやらなかったんだ?スズキ4巻終わる前にレッスン休んだんだっけ?」

私には約8年のレッスンブランクがある。

「いいえ。
4巻の裏表紙に自分の走り書きがあったんですけど。
どうも、クレンゲルと無伴奏の楽譜を買ったみたいです。
クレンゲル、全部やってありました。」
先生、驚く。
「え?クレンゲル、全部やってた?ウソ。」
「ウソでそんなこと言いません…と言いつつ、私も忘れてたんですけど。もちろん、センセが教えてくれたんですよ。」
「お前、スゴイな。」

何で先生がソレ言うかな…。
なのに、何で私はヘタなの?

「じゃあ、ビブラートは教えてなかったのか。」
「そうですよ。私、センセにビブラート教えてくださいって言ったら、センセ『人によって違うから』って教えてくれなかったんですよ。センセがほかの生徒さんには教えてるって、今の今まで知りませんでした。」
「じゃあ、教えるの忘れたんだな…なのに、何でできるの?」

私はビブラート、できてるのか?

「センセが教えてくれないから、独学ですよ。」
「そっか。まぁ、いいか。」

いいのか?

「この前言ったけど、アダージョはイッサーリスがリサイタルの最後に弾いたの。
あんまり知られてない曲でしょ。『俺が隠れた名作見つけたんだよ』っていうアピール、リサイタルやる演奏家によくあるんだ。
イッサーリスはキザだから、選ぶ曲もソレっぽいな。」

センセ、人のこと言えません。
演奏してるセンセも、十分キザです。


「夜はアダージョに決めたんだよね。アダージョ久しぶりに弾いたけど、結構難しかったな。」
「…私にできるかな…。」
「できるようになるよ。そもそもできなさそうな曲は選ばない。」
そうですか。

★★

レッスン終了。

「僕は1時間ほど昼休みだ。夜、昼食べに行くよ。」
と先生。
「私もですか?」
先生うなずく。
「お前最近まともに食べてないだろ。そんなに痩せて。また貧血になるよ。
何だったら食べられる?あまり時間ないから遠くには行けないけど。」
「…だったら、隣のビルのパンケーキ屋さん。」
「よし、そこ行こう。」

パンケーキ屋は見事に女性ばかりだったけれど、先生は気にしないみたいだった。
他人から見ると、私たちは夫婦に見える?それともデート?などと考えてしまった。

「やっぱりスープだけでいい、センセの一口もらえればいい」と言った私に先生は、
「残してもいいから、メインを頼みなさい。」と言った。

結局私は半分しか食べられなかったが、残りは先生が食べてしまった。

食後、私は置いてきた楽器を取るために、先生と一緒にレッスン室へ戻る。
帰り際、先生に「来週のオケ本番、僕はカルテットの仕事が入ってるから行けないけど、頑張れよ。」と言われた。

「頑張れるかなぁ。自信ない。」
私、少し涙目になる。
「ブラームスがどこまで仕上がったのか、とても気になってるんだよ。本当は僕は仕事を放ってでも聴きに行きたいんだけど。応援してるから。」
先生、私の頭をポンポンと撫でる。
「…ありがとうございます。やれるだけやってきます。」

レッスン室を後にした。
明日は、定演前最後のロビコン練習&オケ練習会である。
(7/1)