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定住化して消える身体

◆夏休み二日目。ここ一年、身体というものに関心が高まっています。美容、健康、老化…身体は切っても切れない存在。そこについて少し考えてみたいと思います。


1.身体に目を向けること

 当たり前のことですが、健康であれば自分の身体について気に掛けることはほとんどないと言ってよいでしょう。近年はコロナ対策故に、元気だけれど毎日検温を促され、自分の平熱ってこんなものなのかと思わされた日もあったでしょうが、そうでもなければ、つまり「ちょっと悪寒がするな」「熱っぽいな」と感じなければ自分の体温なんて普段計らないわけです。もちろん、この「悪寒がする」「熱っぽい」と感じるセンサーが非常に大事なのだと思うのですが、ではどれほど発熱しているのかは体温計がなければ分かりません。現に、発熱して咳でも出るといった症状のとき、コロナに罹ったのかなと思ったとしても、検査をして「陽性です」とお墨付きを得られないと自分が何の病気なのか分かりません。自分の身体のことであるのに、風邪なのかインフルエンザなのか新型コロナウィルスなのかも分からず、怪我をしたときでさえ、レントゲンを撮らないとどこがどう骨折しているのかや靭帯がどう傷ついているのかなどが定かになりません。鷲田清一先生は、生きることに関するほとんどを公共および民間サービスに放り投げてしまったと指摘しています。自分(たち)で何とかする、ということを如実に失いつつあります。前述のような医療だけでなく、出産も、葬式も、住処を拵えることも…剰え食事も料理こそまだ行いますが、食料を自分で捕ることはほとんどしません。しかし、食事も住むことも、老いることも、生きるということは身体であると再認識する必要があると思うのです。


2.消える身体

 先述したように、出産から葬式まで、生きる上での多くのことを他者に依存するようになった現代。身体性を遠ざける、無かったことにする、そんな生活習慣が確立してしまった歴史的経緯があることを養老孟司先生は『日本人の身体観の歴史』で指摘しています。分かりやすい例がトイレです。糞尿は生きているからこそ排泄されるものですが、体から放出された瞬間にそれは汚いものとしてきれいさっぱり流してしまいます。かつては肥溜めとして再利用され、次第にぼっとん便所から水洗トイレへと時代によってどんどん排泄物を生活から抹消しようとしています。
 死体も同様です。かつては土葬でしたが、埋めるのではあくまでそこに「ある」状態になってしまうので次第に火葬するようになった。灰にすることで「無かったこと」にできるのだと。古墳時代から飛鳥時代にかけて、土葬から火葬に変わったのは日本において仏教が盛んになっていったからではないかと(これは授業で子どもから出た発言です。驚きました。)考えられます。決して、死者を蔑ろにしているという意識の変化ではなく、身体としての死体の扱いの変化ですが。

 人々は暮らしを豊かにしてきました。移動を楽にするために自転車、自動車、鉄道…生活を楽にするために電子レンジ、炊飯器、冷蔵庫…その便利さの裏には身体性の削除があります。一方で、揺り戻しのようにジムで体を鍛える人や近年のキャンプブームのように失われた不便さを取り戻そうと意識してか無意識なのか、ただ単に文化産業に取り込まれているだけなのか…


◆私は小学校教員です。体育で、自分の身体に向き合えるようにしていきたいと考えて指導しています。と、急に、教育の話にこじつけてしまいました。定住化の話はまた、次の機会に。

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