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目標だらけの学校教育

◆こんにちは。小学校教員のねこぜです。会社でもそうなのかもしれませんが、学校現場にいるとたくさんの「目標」を目にします。教育目標、生活目標、給食目標、クラス目標…目標、目標、目標、目標だらけです。その他にも「目的」「めあて」「ねらい」「夢」…多すぎませんか?子どもが目標疲れしているのではないかと心配になるレベルです。

地球は動いているのに、
どこにも向かっていない。
僕はこのことを面白いと感じる。
広大な宇宙の片隅にいて、
僕達は秒速30キロメートルで堂々めぐりしている。

動くことは、前に進むことだと、僕はどこかで思い込んでいた。

森田真生『偶然の散歩』

 これは森田真生さんのエッセイ。私は読んでハッとしました。時間は過去から未来へと一直線に伸びていると認識していて、人生を歩むとは前に進むこと、絶えず成長すること、目標をもちそれに向かって歩むことへの疑問です。たしかに日本という国で、憲法に目指すべき理念が掲げられ、社会制度の中で成熟した市民になることを目指しています。それが教育の目的です。しかし、それすらも人が勝手に作り出しているに過ぎない虚構かもしれません。

 これもどこかで書いた記憶がありますが、生きる意味とか目的とかそういうものを求めないと気が済まないのが人です。そして、そこに苦しみも混在します。

 「子どもは自然」これは養老孟司先生の言葉です。以前記事にしたことがあります。子どもを見ていると、放っているといつまでも遊んでいます。そこには確固たる目標などなく、そのためにこうあらねばならない義務感もありません。自由奔放そのもの。それが生きやすさの答えであるようにも思えます。
 とはいえ、いつまでも子どもでいるわけにもいかず、予め腰られらた社会という名のゲームの中でプレイヤーとして生きていくためには成熟していかねばなりません。

 「よい教育」とは何かについて考えるのが難しいのは、知性というのが文脈に依存したものだからだ。「何にでも役に立つ知性」などあり得ない。

森田真生『偶然の散歩』

 人によってコンテクストが違う。だからこそ一つの目標に向かって、という「目標」が掲げられるのかもしれません。その意味ではよりよい未来ということになるのでしょうか。しかしその思い描く未来像も人によって異なるでしょう。その差異を楽しめるくらい大らかにいたいものです。「夢をもて」「目標を掲げろ」「それに向かって努力せよ」などと他人にとやかく言われる必要はないと思うのですが、そうも言ってられないのが教育事情です。

 何かを使えるということと、何かを理解することのあいだには、本当は果てしない距離がある。理解しようとする辛抱をやめ、効果的に使うことばかりを求めていると、未知の他者に対する想像力や感受性は、知らず知らずのうちにやせ細っていく。

森田真生『偶然の散歩』

 「本当に大事なことは何か」その見極めができるようになりたいです。手軽さや利便性、何事にも合理性を求める世の中で、手っ取り早く自分の夢を叶えるために、目標を立て、スマートな道筋を立て、そのために学校へと通い、努力する、それが称賛される今なのでしょうか。ぷらぷらしていたら何となく目標ができて、あーだこーだ迂回しながら階段を登っていく、その道中こそを楽しむ、そのための支援をすることが学校教育なのではないかと、偉そうに大きなことを書いて今回は終わりにします。

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