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Barbara Rubin(バーバラ・ルービン)という女性がおりました。おりました、というのは既にその生涯を終えてしまっているからこう書いているのですが、彼女の短い人生と、その中でも特に短い映画界での活動は今では思いだしたように語られるばかりとなっています。
しかしながら彼女は1960年代のNYアンダーグラウンド/アヴァンギャルド映画、否、映画という枠組みを超えてカルチャー全般に於いて非常な影響力を持っていた女性であり、混沌を極めたシーンの、その全ての混沌を一身に引き受けてでもいたかのように、生き急いでいた人物だったのでした。今回は彼女の人生を振り返りながら、しばしば正統からは置き去りにされてしまいがちな前衛映画史について理解を深めていきたいと思います。

Barbara Rubin in "Screen Test" (1965)

1945年のアメリカに生まれたバーバラは、その瞬間から全身にエネルギーを迸らせていた、そういった少女であったようです。幼い頃からアンフェタミンを処方され(ADHDへの対処として処方される、興奮作用・依存性あり)、次第にその影響力は彼女の中で無視出来ない程に大きくなり、また精神科施設に入所していた際にはありとあらゆるドラッグへのアクセスを入手。一口に言って濫用していた、という状態にあったそうです。特別カメラを手にしていたということもなく、また芸術的訓練を受けていたということもないようで、ドラッグの問題以外ではいわゆる「普通」の中流階級の女の子といった感じだったのでしょうか。あまり記録にも残されてはいません。

さて、本筋に戻って精神科施設を出たバーバラ・ルービンは1人の男と出会い、彼のもとで働くようになります。その男が前衛映画界の中心、ジョナス・メカスだったのです。彼は1962年、正に丁度バーバラと出会ったかどうかという頃にThe Filmmakers' Cooperative(映画人協同組合)を結成した所で、彼自身も最も精力的に活動していた頃であり、シーンが最も希望と推進力に溢れていた時期でもありました。彼らの活動の拠点はグリニッジ・ヴィレッジと呼ばれる地区で、この地区は前衛映画、同性愛、カウンター・カルチャーといった時代気分を代表するあらゆる進歩的若者文化の中心となっておりました。この地区で交流を得たバーバラはその後、最も多感な青春時代をこの地区で過ごすこととなります。

最初は資料整理等の裏方仕事、いわゆる雑用をこなしていたようですが、明るく、気の強い性格の彼女はすぐに周囲と打ち解け、次第にメンバーの中心に居るようになります。またグリニッジ・ヴィレッジと言えばドラッグが蔓延していた地区という側面もありますが、前述の通り施設の中であらゆる種類のドラッグを経験していた彼女は、そういった意味でも一目置かれるような、「ハードコア」な人物として存在感を表していきました。気が付けば彼女はカメラを握って街へと繰り出しており、ジョナス・メカスの盟友としてシーンを賑わせます。ジャック・スミスが『燃え上がる生物』を発表した際には彼と一緒に上映会場を必死になって探し回り、多くのシンパを集めてその価値を広めることに貢献したりもしています。上記の作品は『死ぬまでに見たい映画1001本』に掲載されており、すこぶる評判が悪いことで日本のシネフィルの間では有名ですが、上映され、保存されていなかったかも知れないという意味で彼女の奔走なしではあり得なかったかも知れない現実な訳ですね。この頃に量産された多くの映画と同様に歴史から抹消されていてもおかしくなかったのです。

"Flaming Creatures" by Jack Smith (1963)

ここで一点注目されるべきなのはこの『燃え上がる生物』という作品、エロスを全面に押し出し、クィアな要素も含む作品でありながら、その評価がなされる時に語られる名前はジョナス・メカスばかりだ、という事実でしょう。確かに映画史の中に於ける彼の功績は偉大なもので、また彼ほどのビッグネームが擁護したからこそ作品が遺されたということも事実です。しかしながら、その反面ジョナスと共に大きな役割を果たしたバーバラの名前が語られないというのは何とも皮肉な話だと思います。同様に彼女の監督作品、"Christmas on Earth"も歴史から半ば忘れ去られ、『燃え上がる生物』と同等の注目を集めるには至っていません。彼女は常に抑圧の中にあって闘っていたのであり、そしてその闘いは現在でも続いているのだと言えるでしょう。

"Christmas on Earth"ですが、これはバーバラが18歳の時点での作品で、前述のジャック・スミス『燃え上がる生物』に刺激されて製作された映画のようです。タイトルは元々"Cocks and Cunts"と名付けられておりました。
映画は2つのリール(フィルムの巻)から構成されており、1つは主に女性器のエクストリーム・クロース・アップで占められています(仮にリールAとしておきましょう)。ここではただヌードを提示する、というだけではなく彼女のカメラは女性器に限界まで近付いていって、ですから画面一杯に広がるその映像に観客は避け難いほどの圧力を感じるくらいです。彼女は撮影中に「より近く、より近く」と意識を向けていたようで、モデルの女性に女性器を広げて見せるよう要求し、映像が潰れる限界までレンズを内部へ挿入するという具合に「あからさまなヌード」の撮影にこだわりました。ところどころで肛門(男女不明)などのショットが混ざるものの、上映時間30分の内リールAでは超至近距離から撮影された女性器のショットから構成されています。
もう1つのリール、リールBはもう少し引いた視点から撮影されており、アパートの一室でボディ・ペイントを施したパフォーマー(恐らく4人)が剥き出しの身体を重ね合わせる様子を捉えていきます。女性と男性、男性と男性、女性と男性と男性、ランダムな組み合わせで彼らはお互いの肉体をカメラの前に投げ出して見せます。彼らの動きはダンスに近く、また全員の仕草はunapologetically(詫びるようでなく、堂々と)しています。
2つのリールはランダムな仕方で上映され、リールAを大きなサイズで、そしてやや小さめのフレームサイズでリールBが映写機にかけられます。さながら観客の目には巨大な女性器の上で人が踊っているような、ヌードの人々が女性器の内部に吸い込まれているような、そうした風に見えたことでしょう。また上映の際には映写技師が好みのカラーフィルターを適当なタイミングで掛け替え、それもリールAとBで別々のフィルターが使用されます。併せて会場で掛ける音楽も全て映写技師に一任されており、従って観客は映画を見るたびに異なった場所で、異なった色調と異なった音楽に囲まれることになります。当時はまだ概念自体生まれていなかった筈ですが、映画というよりは寧ろ現代の言葉でいうところのインスタレーションに近いのかも知れません。

"Christmas on Earth" by Barbara Rubin (1963)

実際に作品を見て頂ければ分かる通り、この映画は異常なまでのエネルギー/インテンシティに満ち溢れています。そしてこれほどに自由で、反規範的な映画を18歳の少女が、カメラを手にしたばかりの18歳の少女が監督したということは一定の評価に値すると言えるのではないでしょうか。
1つ分かりやすい例として絵画というものを考えてみると、絵を描いてみよう、そう思ったとして殆どの素人は写実に向かうだろうと思います。ある景色、物体、人物をなるべく「そっくりに」描こうとするのではないでしょうか。よく赤子が描いたようだ、と評されるピカソの絵画ですが、何の創作の経験もない素人がいきなりあれほど自由な作品を作ることは難しいだろうと思います。画風とでも呼ぶべきか、自分のオリジナリティ、型にはまらない独自性。それを見出すためには型にはまった創作の反復の上に普通は生まれてくるものだろうと思います。少なくとも凡人の場合は、ですね。
同様に映画というものを撮ろうと考えたとして、大抵は「映画的な」ショットを撮ろうと、その意味も分からぬままに素人はカメラを構える筈です。ショットの間に何らかの物語を生み出そうとします。そして"Christmas on Earth"という映画は全くそうした慣習に従うという意志とは無縁である、その意味でバーバラが行った「映画的」でないショットを積み重ねるような創作は、はっきりと言って才能の塊でしかありません。作品の方向性的にも、創作の洗練度に於いても『燃え上がる生物』とは全く異なっており、これは彼女の純粋なオリジナリティです。
双方のリールの、その全てのショットに溢れる自由の精神、そしてあらゆる制限から解き放たれたヌードは、一見つまらないものに思われますが(実際見ていて楽しい作品ではありませんが)、アウトサイダー的映画として評価には値するものです。殆どの映画jは性というものを関係性において表現するものですが(男と女 etc.)、この映画において提示された純粋な性、何者にも縛られないそのものとしての性。これは唯一無二のものであり、現代の映画史の中でも1つのランドマークとして振り返られるべきなのではないでしょうか。

しかしながら現実には冒頭に述べた通り、彼女の映画史における位置付けという行為は為されておらず、そしてそれは彼女が生きていた時代からもそうでした。"Christmas on Earth"製作後も彼女はシーンの中心で積極的に活動を続けます。前述のジョナス・メカスの他アレン・ギンズバーグ、ボブ・ディランなどとも交流を深め、その中で彼女が出会った1人にはあのアンディ・ウォーホールの姿もあったのです。

ウォーホルは1962年、NYにファクトリーと呼ばれるスタジオを立ち上げ、多くのアーティストや役者を集めた芸術サロンを設立していたところでした。そこには自然と地元の映画人たちも顔を出すようになり、ウォーホールは実験映画の製作に乗り出していきます。
1965年、彼が一貫して取り組み続けていた"Screen Test"と名付けられたプロジェクトに彼女が出演(note2枚目のスチルです)。沈黙/直視というものに耐えられない人間は、カメラをただ構えられると何らかのアクション、例えば髪を掻き上げたり笑って見せたりするものですが、その最も純粋な人間のリアクションを観察しようというプロジェクトで、バーバラはモデルとして出演します。また1966年ウォーホールがプロデュースしたバンド、the Velvet Undergroundがライブを行った際にはカメラを持って会場に出向き、映像の撮影および監督を手掛けてもいます。公式にクレジットされている作品はこの2つですが、公私双方で交流を深め、これまた日本のシネフィルの間で評判の悪い難解なウォーホール作品に多くの影響を与えていました。

ですが、それもあくまで裏方として。彼女は”Christmas on Earth: Part 2"と銘打ってマーロン・ブランドからフェデリコ・フェリーニまで多くの著名人に声を掛け続編の製作を試みますが、資金難の問題から頓挫。60年代が終わろうとする頃にはアンダーグラウンド・シーンの勢いにも翳りが見え始め、或いは当初の確信への期待感は小さくなっていき、それに併せて彼女の活動も下火に、また幼少期から常用していたドラッグの影響から彼女の精神面、健康面も不安定になって行きます。遂には映画製作を完全に放棄してしまい、郊外の森奥で友人らと自給自足的コミュニティの設立を試みたり、その近隣にあったユダヤ教修道院で信仰に目覚め(彼女はユダヤ人でした)、敬虔な信徒としてラヴィになることを志したりと、この頃には"Christmas on Earth"で見せた天才少女の面影はなくなってしまっていました。
彼女は結局映画とは何の繋がりもないユダヤ人の一般男性と結婚、彼と連れ去ってパリに移住。NY時代の友達とも交流もほぼ途絶え、主婦として平和な生活を送っていましたが、1980年、5人目の子供出産にあって、合併症で呆気なく亡くなってしまうのでした。齢にして35歳、あまりにも短い人生でした。

さて2023年現在、彼女の現存する作品でオフィシャルに視聴可能な作品は"Christmas on Earth"のみ。New York Filmmakers' Co-op(ジョナス・メカスが設立した団体の後継)のWebページから視聴可能な訳ですが、その値段はなんと$200(およそ3万円)。価格設定が高過ぎる、即ち形骸化してしまったFilmmakers' Co-opによって、無闇な権威化に利用されるという、自由なアートを志したバーバラの意図とは全く反対の形で販売されるという形になっています。
またデジタルフォーマットとして販売されている映画は1パターンのみ、色調も音楽も固定されてしまっていて2つのリールで作品を開かれた構造に保っていた原型はありません。また使用されている音楽もthe Velvet Undergroundほか当時のNYで活躍していたバンドのものになっています。これは確かに当時を再現するという意味では有用かも知れませんが、再び開かれた構造、自由な作品を目指したバーバラの意図とはかけ離れてしまっていると言えるでしょう。
クイーンやデヴィッド・ボウイ、レディ・ガガの音楽と併せて上映しては何故駄目なのでしょう?仮にバーバラが存命であれば、そちらを好んだことであろうと私は思っています。

結論ですが、バーバラ・ルービンは60年代のNYでシーンの盛り上がりを陰ながら支え、また監督としても恐らくは映画史上最も自由な性の描写をしてみせた、極めて才能豊かな女性でありました。
しかしながらその働きは常に過小評価され続けており、現代に至った意味でも彼女の自由な映画、オープンな性への取り組みは誤解をされ続けています。再評価という名の下にFilmmakers' Co-opでは権威付けの一環として利用されるだけにとどまっており、要は映画の反発的姿勢の取り組みを評価するのではなく、反発的姿勢だけを持ち上げて体制に組み込もうとしてしまっているわけです。そして彼女の映画はその不都合に常に反発し続けるでしょう。

60年代に突如現れ、消えていった天才は、2023年の今、たった一本の映画と共にレガシーなきまま一本の映画だけの中で闘い続けているのです。


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