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マルセイユ事件について聞いたことはあるでしょうか。
時は1772年6月のこと、主役となるのはかの有名なマルキ・ド・サド侯爵です。下働きを連れた侯爵は4人の娼婦を囲い込み、下男を交えて倒錯的な性行為に耽りました。曰く娼婦を激しく鞭打ったり、或いは娼婦に自身を鞭打たせたりするなど。曰くアナル・セックスを強要するなど。曰く刺激性の媚薬を娼婦に飲むことを強要するなど。その行為の苛烈さ故というのも勿論のことながら、特に飲まされた媚薬を毒薬だと勘違いしたことが決め手となって娼婦は後日警官に駆け込み、侯爵は逮捕、投獄。これがきっかけとなって始まった獄中生活の中で『悪徳の栄え』や『ソドムの百二十日』などの文学が生み出されます。

このマルセイユ事件は当時のパリで一大スキャンダルになりました(想像に難くないことかとは思いますが)。彼の行為に見られる圧倒的なエロスとバイオレンスは殆ど常識の想像力を超えており、それが誉れある貴族階級の人物によって堂々と行われたのです。人々は嫌悪と驚嘆を持って彼を恐れ、噂し、そして彼も彼でその欲望に忠実なままの文学を残したものだからそのイメージは一人歩きし、こうして史上最もセンセーショナルな性的倒錯者、マルキ・ド・サド侯爵のイメージが誕生したのでした。
これは現代の日本で喩えて言うならば誰もが名前を知っている様な大物政治家が実は自分の館で大量に娼婦を囲っていて、お付きの秘書に命じて鞭打ちやらアナル・セックスをやらせていたビデオが流出した、とかそういった具合でしょうか。そう言えば似た様な例で誰もが知っている大手芸能事務所の社長が囲いのタレントたちに性加虐に及んでいた、という話もありましたが。いずれにせよスキャンダルは免れないでしょう。いつの時代でも、サド文学やそれを元にした映画作品が作られた後であっても、人々が恐れるものは変わらないのです。

"Salò, or the 120 Days of Sodom" (1975)

しかし冷静に考えてみると、サド侯爵がこれだけのセンセーションを巻き起こしたというのは奇妙な話であるとも言えるのではないでしょうか。
1740年に生まれて1814年に死んだ彼はその生涯の前半生、詰まり彼が侯爵であった頃を腐り切ったアンシャン・レジームの時代に過ごし、そして1772年マルセイユ事件がきっかけとなって投獄され、そして犯罪者となって暫くの1789年にフランス革命が勃発します。パリ・コミューンの成立や恐怖政治の台頭をサドは獄中の中から眺め、そしてナポレオンが皇帝となるもライプツィヒの戦いに敗れ失脚した1814年、まるで激動の時代に1つ区切りが付いたとでも言うかの様にして亡くなったのでした。
彼の文筆活動はバスティーユの監獄にいた時代、詰まりフランス革命直前の頃に最も盛んであったと言われています。彼自身がマルセイユ事件で体現した様な、或いは欲望はしても行動には移せなかった様な、そうした不埒な妄想を猛烈な勢いで書き出していた丁度その頃、外の世界でもまた革命の炎が燃えあがろうとしていたのでした。
この革命の炎は結果としてギロチン台へ繋がっていくのですが、斬首と比べて痛みが少ないとか車裂きよりはマシだとか言っても、それは広場で公衆を前に生首の転がる場面である訳です。残虐かどうかは議論出来るとしても、その暴力性には疑いの余地がありません。或いはフランスで拷問が廃止されるのは1788年ですから、革命以前には正当な行為として「人をある目的の為に痛めつける」という行為が認められていた訳で、鞭打ちなどサド以外にも多くの侯爵、貴族たちが及んでいた行為だったに違いありません。

もう論点は明らかになっているでしょう。
サド侯爵の鞭打ちと拷問刑としての鞭打ち、或いはギロチン刑。このどちらもが表面的には暴力であるにも関わらず片やスキャンダルとして恐れられ、そしてもう一方は倫理とか政治の枠組みでのみ語られるのは何故なのでしょうか?
エロスが含まれているかどうかの違いは問題とならないでしょう。先ほどの例を持ち出せば、政治家や芸能人の性的倒錯は大きなスキャンダルとなること間違いなしですが、一度アダルトサイト/アダルトショップに入ってみれば似た様な、否、より一層過激なポルノなど幾らでも見つかるのであり、そしてそれらは皆合法的に販売され、そして大衆は歯牙にもかけないといった具合なのです。殆ど児童ポルノ同然の商品や、インセストまがいのもの、肉体的苦痛を伴うものなど業界にはサド的イメージが氾濫しており、しかしながらそれらは問題にされず、サドがそうした様に一旦アクチュアルな行為となった時にだけスキャンダラスとなるのは一体何故なのでしょうか?

答えは案外にもシンプルで、ここでは文脈化、物事をコンテクストに押し込めるという現象が発生しているのだと考えることが可能となります。
自分の目の前を歩く人間が突然に襲われて頭部を切断されたとしたら。これは間違いない恐怖ですが、広場でギロチン刑に処される人間を見ることはちっとも怖くない。何故か。それは裁きのシステムの一部だからであり、彼/彼女は悪人だから。
議会やテレビなど公の場に立つ人間がサディスティック/マゾヒスティックな異常性癖を持っていたとしたら。これは「不適切」でありスキャンダラスですが、無秩序に発達するポルノに関してそのカテゴリーを真剣に管轄しようとする人はいないでしょう。何故か。それは経済システムの一部だからであり、SM的なポルノであろうがインセスト的なポルノであろうが明確に法に触れない限りは「異常性癖者の為の恥ずべき商品」として自分を隔離して理解しつつ知らぬ存ぜぬ的な態度を取れるから。

これは別の表現をすれば非常に数学的/科学的な考え方だと言うことも出来るでしょう。
エロスやバイオレンスを定量的に計測出来るとして、その最も純粋な表れ方、これを危険度100であるとします。例えば突然の破壊衝動で殺人を犯したり、強姦に及んだりという行為ですね。これらは理性による制御が働いていない行為であり、社会の不安定化要因に他なりませんから基本的には人間個人レベルでの相互自制システムが働く訳ですが(殺されない為には殺してはならない)、暴発的な事態に備えてシステマチックな対処法を持っておくことも重要となるでしょう。
そこで誕生するのが法律、そしてそれによる処罰という考え方であり、共同体に著しい危害を与える/与えたと判断された人物を強制的に処罰する権力を体制に持たせることになります。その処罰の方法には罰金から死刑まで様々存在し、これらはエロスやバイオレンスの度合いによって判断されるでしょう。インセストは危険度80程度に値するから厳罰で、野外での性行為は公序良俗を乱すが他者への危害は比較的小さいから危険度30程度で短期の懲役や罰金に留める、といった具合ですね。
この数学的/科学的な判断方法に基づいて、ギロチン刑であれば寧ろ公共の秩序に貢献するから危険度は限りなくゼロに近い、或いはマイナスである。ポルノも合法的に生産され販売されているのであれば公衆への危険度は小さく、また異常性癖者の欲求を満たし犯罪を抑制しているとも言えるのかも知れない。ともかく社会に対する危険度は小さく許容範囲内である。こういったコンテクスト的な評価が与えられる訳です。

"A Desperate Crime" (1906)

数学的/科学的という言葉のニュアンスが示す通り、この定量化による評価というのは非常に合理的なシステムです。当時のフランス社会の気分は推して図りきれないところがありますが、サドが投獄され侯爵位を剥奪されたことも恐らく妥当であったでしょうし、現代では確実に重罪に値する行為です。言い換えれば彼の性的欲求は、一般のコンテクストからは余りにも外れてしまっていた、ということであり、だから人々は彼を理解が出来ず、故にスキャンダラスとなったのでした。

しかしこの合理性の裏には1つの問題が潜んでいます。定量化というシステムは文脈の中に位置付けることが出来るか否かというのが審判の基準であり、エロスやバイオレンスそれ自体の性質を議論することはありません。ですからある状況下では容認される猥褻と暴力が他方では糾弾されるという現象(ギロチンは合法でサドの鞭打ちは違法)が発生する訳です。或いは極端な暴力であってもコンテクストの中に入っていれば審判の対象にすらなり得ないという現象(ユダヤ人迫害という歴史から、パレスチナ人は皆殺しにしてしまえという様な主張が、少なくとも一定の共同体では成立する)だって可能となるのです。つまりエロスとバイオレンスを規制する為に生まれたシステムが合理性という名目の下に矛盾を放棄した結果、猥褻と暴力を定義することでシステムそれ自体が行使者/管理者となってしまうという捩れが生じてしまうのです。そしてそれを点検する手段に乏しいという問題がある。もしギロチン刑が闇雲に適応される社会になってしまったとしたら?ジェノサイドを強引に推し進める権力を制御する術がないとしたら?

これに対抗する術はエロスとは何か、バイオレンスとは何か。この難問について日頃から常に考察していくことに他なりません。合理化の観点とは別に(つまり非合理を敢えて選択して)思想として両者の本質を常に見つめ続けることでシステムを点検する必要があるのです。
そしてその担い手となる1つの機構が文学だ、ということが出来るでしょう。文学に於いてエロスやバイオレンスの多少は問題とならず、本来的にはどれだけ性質の純粋な表現が為されているか、というのが作品自体の良し悪しの評価に繋がってくる筈です。日常に於ける些細なエロスであっても、或いは異常なエロスであってもそれらは共に「エロス」という性質の顕現であって、両者の間で評価が分かれるということはない筈なのです(より過激なエロスだから素晴らしい、という風に)。そういった評価の方法は先に述べた定量的な手法と類似するものであって、故に文学に持ち込まれるべきものではありません。文学を議論する時、我々はコンテクストを超えた人間や観念、社会について思考を巡らしているのです。

サド文学が素晴らしいのはこの点に於いてであり、卓越した想像力によって投獄の憂いにあった侯爵はその判断が如何に合理的でしかし矛盾に満ちた脆いものであるか、この点を文学によって明らかにして見せたのでした。
彼が社会にとってスキャンダラスであったのはコンテクストを外れているが故ですが、サド文学が刺激的なのは同じ理由に依る為ではないでしょう。その文学は実直にエロチックなのであり、従って最も純粋な文学で、また同時に最も表面的で退屈な文学でもあります。この純粋⇋表面的という関係がエロスとバイオレンスの本質としてあるのであり(故に矛盾も生まれる訳ですが)、文学はこの関係について見つめ続けていくという使命を負っているのではないでしょうか。

"Flaming Creatures" (1963)

そしてそれは映画に関しても同様です。
映画芸術は文学にはない視覚的・聴覚的表象をメディウムの強みとして持っており、エロス/バイオレンスの表現は映画史の発展と殆ど歩みを一にする様にして発展してきました。

とは言えその中でサド文学的命題に向き合った作品は多くはありませんが、数少ない例外としてあげることが出来る傑作がジャック・スミスによる『燃え上がる生物』(1963)でしょう。多くの全英映画/実験映画に影響を与えた本作はこれ以上ない位に純粋なエロスを提示している、という意味で史上最も完璧なポルノ映画となっています。
この映画は先ず背景に手書きされたクレジットを写すタイトルシークエンスから始まるのですが、そのファースト・フレームからこの映画の稀有な特徴は明らかで、ざらついたフィルムと異常なクロース・アップによって曖昧さ、不可視性とでも言うべき性格が与えられています。役者たちが何処にいるのか、どういった行為の最中なのか、彼らはそもそも誰なのか、こういった情報は一切宙に投げ出されたままで、カメラはひたすらにディテールへ、役者の顔などの細部のみを追いかけるでしょう。これは全体から部分へ、部分から全体へという硬直した映画文法の拒絶であり、我々の意識を物語でなく多義的な表面へと誘導していきます。しかしながらフィルムの質、乱暴なライティング、手ブレの酷いカメラワークなどの要因によりそうした表面の認識は困難にさせられており、つまり我々は物語(=コンテクスト)を知らないままに不鮮明な表面だけを追いかけるしかないという極めて不都合な状態に追い込まれているのです。

そうした状態の中で映画は第一のシークエンス、キャラクターの紹介へと移行します。
このシークエンスでは主に2人の人物が登場し、お互いがお互いを覗き見る様な格好で接近し、背景に白い木が置かれたひらけた場所で出会うとダンスを始める、という展開になっています。我々はぼんやりとした予感としてどうやらこの2人の間に何か特別な関係があるらしい、或いは特別な関係を生みたいという欲求があるらしいことを察するのですが、それも決して明らかではなく、台詞やショットによって説明されることはありません。飽くまでカメラは表面に固執しているのであって(そしてそれも不明瞭で)、彼らの動作からそれを曖昧に予感するだけです。

続く第二のシークエンス、ここでは先ほどの2人のキャラクターに加えて突然に多くの人物がフレーム内に登場し、そして彼らは皆一様にリップライナーを持って唇に紅を引いている様です。
ここでもカメラは表面だけを追いかけていきますから画面一杯に顔、もしくは唇が広がります。しかし沢山に増えたキャラクターたちは化粧のプロセスの中で徐々に互いの肉体を絡ませ合っていき、そしてクロース・アップの中で肉体の持ち主は不明確になっていくでしょう。最早誰の腕が誰の脚と絡まっているのか、そうした区別は不可能で、ただ肉体のイメージが大写しで提示されるのです。その中で化粧と口紅というモチーフは次第に肉体のそれと混じり合っていき、遂に最終盤のフレームではヌードの男性が現れます。彼のペニスという表面にもカメラは眼差しを向け、そしてペニスが唇の手前でリップライナーと同時に突き出されるというショットが続きます。

第三のシークエンス、日本語の古い歌謡曲が流れています。先程まで化粧をしていた人物たちは今ではダンスに励んでおり、その中心となるのは第一のシークエンスで見られた2人のキャラクターでしょうか。日本語のオリエンタル/エキゾチックな響きと合わせて表面的な美のイメージが持ち越されている、その様に感じられるのですが、次第にショットは異様な雰囲気を醸し出し始めます。2人の内の1人、男性がもう片方の女性の肉体へと手を伸ばし、それに合わせて無数のキャラクターたちが彼女の側へと群がって、皆が彼女の肉体へと手を伸ばしていきます。

第四のシークエンス、音楽は歌謡曲とクロスフェードで移行していき、風を切る様なアンビエンスと女性の叫び声が挿入されます。
今や彼女の肉体は明らかに欲望の対象となっており、一層手ブレの酷くなったカメラはシーンの暴力性を強調している様で、エロスとバイオレンスが過激に混じり合っていくでしょう。印象的なショットとして無数の内の1人の男が彼女の足先へと顔を近づけ舌で舐める、というものがありますが、このショットに於いてシークエンスは一種の極致に達しているかに思われます。
強調しておきたいのはこの場面に於いても曖昧性という特徴は固持されているとい点で、エロスとバイオレンスは確かに感じられるのですがそこにはアクチュアルな質感は欠けている様なのです。ヌードの女性とそこに群がる人々、というイメージはレイプという単語を連想させますが、そして彼女の苦し気な顔はそのイメージを強めるのですが、しかし不鮮明なショットは物体から実感をはぎ取っている様で、彼女に群がる手も例えば肉体との間に1センチくらいの隙間があるんじゃないかと思わせる様な、そういった曖昧さがこのシークエンスには見られます。

第五のシークエンス、ここに至って人物たちは疎らでしか見られず、先ほど欲求されていた女性はぐったりと横たわっています。暫しの静寂の後に緊張感のあるストリングが音楽として挿入され、動かない肉体、花、壁の染み、カーテンに開いた穴、棺桶といったイメージが次々と連打されていきます。しかし、これらもはっきりとした識別は困難で、互いに寄り集まって1つの印象を、つまり先ほどのエロスとバイオレンスから一転した何か静的で死に近い印象を形作っていくのです。
しかしその印象も第六のシークエンスで更に抽象化されるでしょう。再び動き出した肉体は無数に増殖しており、この場面でキャラクターたちはそれぞれに花を抱えてダンスに勤しみます。長く引き続くダンスのシーンで第五シークエンスで現れたモチーフは表面的な美へと還元され、そしてThe Endの文字が登場し、映画は終了します。

"Flaming Creatures" (1963)

この『燃え上がる生物』(1963)という映画が示しているのは、表面的⇋純粋というサド的な美に他ならないでしょう。

  • 素人レベルの撮影で俗悪なヌードを写しただけの悪趣味な映画

  • 全くプロットが存在せず、理解に苦しむ

  • 性描写への挑戦という意味で時代的な価値はあるのかも知れないが、現代から考えれば全く意味がない

  • ヌードに挑戦すれば良いだろうとしか思っていない勘違い映画

  • 劣悪な趣味で人を挑発しているだけの作品

こういった批判が一般には本作に向けられており、ネット上などで散見される訳ですが、その全てが本質からかけ離れていると断言してしまって良いと思われます。
改めて繰り返すまでもないことかも知れませんが、これらの批判は全てコンテクストに基づいた判断、数学的/科学的な視点からの意見だと言うことが出来ます。『愛のコリーダ』(1976)や『夕顔』(1967)など過激な性描写に挑戦した作品というのは数知れず存在しますが、こうした映画と比べて『燃え上がる生物』(1963)が極端に俗悪さを批判されているのは登場するエロスが一切の説明無しに行われているからだと予想され、つまり法システムという枠組みの中で行われるなら生首が転がろうが怖くない、国家権力による政治運営の結果なら戦争もジェノサイドも正当な行動である、という文脈化の理論と全く同じ構図によるものなのです。

そもそもエロスとは隠されているべきものである。不必要なエロスというのは表現の中に含まれるべきではないし、表現されるのであればそこには正当な理由と背景の説明が不可欠である。
これは一見正しい主張に思えますが、思い出すべきは「エロスやバイオレンスの多少は問題とならず、本来的にはどれだけ性質の純粋な表現が為されているか、というのが作品自体の良し悪しの評価に繋がってくる筈」という基本原則です。もしこの原則自体を否定するのであればコンテクスト的な批判も可能でしょう。エロスは多い/少ないほど作品は素晴らしくなる、と言う様に。しかし本質の探求こそが文学(と映画などの諸芸術)の方針だと考えるのであればエロスの文脈を知ることによってエロスを解明した気になっているという姿勢の方が間違っているのであり、性描写を禁止する時代性よりもそうしたコンテクストによって芸術を圧迫する姿勢こそに『燃え上がる生物』は異を唱えていると見るべきではないでしょうか。

映画の表面への異常な関心と、それでいながら鮮明な描写を拒むという手法は明らかに文脈(物語)による解釈を拒絶する試みであり、表面的な部分だけを提示しながらそれでいて何か全く異なる抽象へ至ろうとする試みであるのだと理解することが出来るでしょう。
その曖昧さを表面的⇋純粋という矛盾する2つの要素のパラレルな提示とここでは捉えているのですが、これは文脈によらないエロスの表現として非常に効果的であると考えられます。本作の中にははっきりとエロスが感じられ、しかもそれは如何なる要因にもよらずそれ自体として「曖昧に」独立して感じられているからですね。もちろん物語による表現というのは文学(と映画)に与えられた大きなアドバンテージであり、それを否定する様なことはあってはなりません。しかし物語に飼い慣らされた結果として「本質へ至る」という使命を忘れ、コンテクスト的、つまり現実世界的で政治的な鑑賞に身を任せることもまた同様にあってはなりません。
その基本姿勢を思い出させてくれるという意味でジャック・スミスの映画とサド侯爵の文学はそれぞれの領域で似た地位を占めているのであり、そういった理由から彼の代表作である『燃え上がる生物』は映画史に残る傑作だと評価されるべきだと考えられるのです。


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