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ボードゲームジャムをしたい理由

元日のnoteで今年の目標の1番目に、

「ボードゲームジャムを開催する!」ことをあげました。

このあとどんなボードゲームジャムをしたいのか、

について書こうとは思っているのですが、

その前に「サイコロ塾」としてなぜボードゲームジャムをしたいのか

をこのnoteでは書いていきたいと思います。


「つくる」という行為の可能性

昨年、「クリエイティブ・ラーニング:創造社会の学びと教育

という本を読みました。

もともと「ゲームを使う」ということを、

ライフとワークの境なくやってきているわけなのですが、

今まではとにかくゲームをプレイしてもらうこと、

プレイの中にある学びを体系化して子どもに伝えたり、

体感してもらうことをしてきました。

「ゲームを使う」ことは十分に学びの価値があることで、

筆者自身は確信もしていることです。

それはずっと変わりません。

しかし、「使う」ことで学びを子どもたちに内在化できているかどうか、

ということを考えたとき、なかなか短期的なスパンで

その効果を実感すること、もっと言えば、

(本人や保護者、そしてたくさんの一般の人々に)

実感してもらうことが難しいと感じていました。

なんとかして「ゲームを使う」ことの価値をさらに

深めていくことができないか、

他の何かではなくて「ゲーム」だからできることは

なんだろうか、そんなことを考えていた時期でもありました。

そこに読んだ本が最初にあげた本です。

曰く、

いま始まりつつあり、これから本格化していくと思われるのが「創造社会」と呼んでいる時代である。(p.8)

ということ、そして、

「創造」「つくる」ということが人々の関心や生活の中心的な関心となる時代である。創造社会においては、人々は、自分(たち)がつくりたいと思うものを自分(たち)でつくることができるようになり、どれだけ自分がつくりたいものをつくれているかが、生活・人生における「豊かさ」を象徴することになるだろう。消費やコミュニケーションは、「つくる」という文脈に取り込まれて価値を発揮するようになるのである。(p.8)

ということです。

この本の本当に初めの方、プロローグにあたる部分を読んで、

「これだ!」ということを思ったのです。

ちょうどその頃、自分でもDEARSPIEL様で開催されている、

テストプレイ会に参加するべくボードゲームを作っている頃でしたので、

この文章を実感を持って読むことができたのでした。

これまで「ゲームを使う」ということについて行き詰まっていたところに、

一筋の光明がさした気がしました。

今まではプレイ(消費、コミュニケーション)で終わっていたところに、

「創造」「つくる」ことによってさらに価値を高める、

つまり、「つくる」ことを通して学びをさらに強化できる

のではないかと考えたのです。


なぜ「ボードゲーム」なのか?

ゲームジャムの存在を知らなかったわけではありません。

その周辺領域が自分の学問的関心領域であり、

国内のゲームジャムを牽引している人が周囲にもいましたが、

当時はそこに見向きもしていませんでした。

それは、「デジタルゲーム」という高度に専門的な能力が必要

(と少なくとも自分は思っていた)な領域であって、

気軽に参加できるようなものではないと思っていたからでした。

ところが、その実態は先のnoteでも書いたように、

必ずしも「デジタルゲーム」である必要性はないと知りました。

さらに、長年の研究活動と様々なボードゲームとの出会いを経て、

ゲームというものの本質が「デジタル」「アナログ」関わらず、

共通していることがわかってきました。

また、自分自身が「ゲームをつくる」という体験をしてみて、

その楽しさや考えるプロセスにおいて様々な学びを得たこともあります。

以上のことから、「ボードゲームをつくる」ことには、

大変に教育的な価値があるだろうと思い至ったのです。


ちょっと寄り道になりますが、

上のように書くと、教育的価値が先行しているように捉えられがちですが、

僕自身は「ゲームをプレイすること」も、

「ゲームを通してコミュニケーションすること」も、

そして、「ゲームをつくること」も、

まずは前提としてすべて「楽しい」ということを知っています。

楽しくてしょうがない。

楽しいから学びに繋がるし、

そもそも「楽しさ」と「学び」は同居するという考えです。

そんな楽しい学びを子どもたちに広げたいと思っています。


本題に戻ります。

「デジタルゲーム」と比べてアナログなゲームである

「ボードゲーム」の利点は、

直接に「ルールに触れる」体験をすることができることにあると

僕は思っています。

ちょっと伝わりにくいかもしれないのですが、

「ルール」という概念そのものに触れる体験ができることです。

「デジタルゲーム」ではあえて隠されているルールも、

「ボードゲーム」の中では明示されています。

「ルール」という存在がどのように意味ある遊びを生み出しているのか、

人々の感情を動かす装置としての「ルール」の機能、

安全・安心のレールを敷く為の役割を担う「ルール」、

誰かの都合や利権を守るために設定されている「ルール」、

「ルール」を知り、守り、ときに破り、そして作っていく、

こうしたことができるからボードゲームでなくてはならないのです。

そして、「ルール」に触れることで世の中を

新たな視点から見ていくことができるだろうと思うのです。


「ゲームデザイナー的思考」という仮説

多くの人が知っていますが、生きていくことはゲームとは違います。

すごく厳しいし、つらいことも多いです。

今も昔も、明日はどうなるかわからないのは変わりませんが、

今はさらにわからなくなっていると思います。

曖昧で、不確かで、不明瞭です。

こんな中で「ゲームをつくる」という体験が与えるインパクトは何か、

と考えるとそれは「ゲームデザイナー的思考」を持つこと

(もっと良い単語を考え中ですが、ひとまずこれで)

ではないかと思います。

「思考」と書きましたが、「態度」に近いものと考えています。

似たような概念でこれまた現在読んでいる本である、

プレイ・マターズの主題である「遊び心」があります。

プレイ・マターズでは、「遊び心」を次のように言っています。

遊びと遊び心の主なちがいは、遊びが活動(activity)であるのに対して、遊び心が態度(attitude)であるという点にある。(中略)態度とは、活動に向かう姿勢である。それは活動や人や物に対してわれわれがとる、心理的・身体的・感情的な見方である。(p.45)
(中略)遊び心は、遊びの特性のいくつかを、遊びでない活動に投影するものである。遊び心は、活動としての遊びではなく、存在のモードとしての遊びを使って、世界に関わろうとすることだ。(p.46)

本書は現在読書中なので明言は避けますが、

「遊び心」を少なくとも「遊び」と同等に、

人として存在する上で重要なものとして捉えています。

先にあげた「ゲームデザイナー的思考」はこれに近しいものです。

「ゲームの特性をゲームではない活動に投影する」ことによって、

とかく生きづらい世の中にルールやゴールを設定し、

それによって安心・安全を確保し、

(自分自身を含めた誰かにとっての)意味ある体験を生み出し、

そしてときにそれを変化させることによって新しい価値を生み出していく、

そういうことができるのではないかという仮説です。


ボードゲームジャムで実現したいこと

ちょっと乱暴な言い方になりますが

「ボードゲームジャム」を通して一番やりたいことは、

「新しいボードゲームをつくる」ことではないのです。

また、「ボードゲームデザイナーを育てる」こととも違います。

副次的に上記のようなことはもちろん目指したいことではありますし、

そもそも「ゲームジャム」が持つ教育的効果も目指しています。

とはいえ、真にやりたいことは先にあげた仮説の検証なのです。

「ボードゲームをつくるという行為」が

「ゲームデザイナー的思考」を身につけることにつながるのか?

そして、ゲームデザイナー的思考は、

私たちが幸福に生きていくことに寄与するのか?

そういうことを「ゲームジャム」の開催を通じて

実践・検証していきたいのです。

ここまで読んでくださった方、

特にボードゲームデザイナーの方は肩透かしを食らったでしょうか。

しかし、上の目的に到るまでの道程にはもちろん、

新しいボードゲームができたり、

ボードゲームデザイナーが誕生することもありえるのです。

あくまで自分が込めたい思いですので、

この壮大な実験にどうか賛同してもらえませんか?


今日のカレー

今日はちょっと変化球のこちらです。

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ビリヤニを作ってみました。

お米に普通の白米を使ったから?なのかな、

ちょっと柔らかく炊けすぎました。

付け合わせにカチュンバルというサラダを作りました。

こちらはバッチリ美味しかったです!




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