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それはそれ、これはこれ

最近、世の中の話題の流れが速いなぁと感じている。世の中の出来事が、車窓から見える風景のようにどんどんと後ろに流れていくような、そんな感覚だ。これは単純に私が歳をとったからということもあるのだろう。体感時間は年齢を重ねるごとに早くなる、というのはこういうことなのか。

少し前に、「芸能人の政治的発言をするのは~」という話題が盛り上がっていた。これが私の中でなんとなく引っかかっていた。

この件に対しては様々な意見を目にしたが、そもそも人間が好きなことを発言するのを止めることなんて誰にもできないんだし、自己責任で他人に迷惑をかけなければ、好きなようにすればよいと思う。どういう経緯でああいったことが起こったのかは、噂も含めいろいろ飛び交っているが、その辺は正直どうでもいい。

「知識が無いなら発言するな」的な批判も見られたが、さすがにそれは無いだろうと思ってしまった。知識など無くても、発言はしていい。そもそも人間なんて口から出る言葉の半分くらいは知識なんか伴わない発言じゃないだろうか?ラーメン食って「うまい!」っていうのにラーメンの深い知識が必要か?逆に、発言には知識を伴う必要があるというのであれば、童貞の中学生達が放課後に性に対する憧れを口にすることもできないということになる。政治と中学生の下ネタを一緒にするなという批判が聞こえてきそうだが、何故一緒にしてはいけないのか?政治とはそんなに高尚で上品なものなのだろうか?私はそうは思わないし、童貞中学生の性に対する憧れが低俗で下品だとは思わない。どちらもある意味では「夢」であり、「理想」なのだ。

「芸能人のような影響力のある人が~」的な批判も、的外れだと思う。そういう批判をする人は、潜在的に自分以外の他人を見下しているのかな?と思わざるを得ない。自分の好きなアーティスト、芸能人が言ったことが全て正しいと妄信する人間ばかりの世の中で、自分だけは違うと言いたいのだろうか?なんというか、あまりにも上から目線というか、その芸能人のファンごと馬鹿にしている印象がある。

そんな「芸能人の政治的発言」とそれに対する批判について、なんでこんなにも引っかかってしまったのか考えてみた。それは「見たいものと見たくないもの」という点に尽きるのではないかと思われる。

芸能人だけでなく、表現者、アーティストのような人達が「素晴らしい作品を作ること」と、その人達が「素晴らしい人格、思想、理念を持っているかどうか」は全く別なのだ。ややこしいのは、この場合の「素晴らしい」というのは『自分にとって』という枕詞が付くことだ。

私達はアーティストの「作品」が自分好みである、と感じた時に、作品を通してその人物を好きになる。これは「容姿」「歌唱」など、外見やテクニック等にも同様のことが言えると思う。だが、だからといってそこに『自分好みの人格、思想、理念』まで求めるのはちょっと違うのかな、と。「作品」と「演者・作者の人格、思想、理念」は同一ではない。この部分をごちゃまぜにして考えてしまう風潮があるからこそ、今回のような変な盛り上がりになってしまうのかなと、なんとなく感じる。これは、芸能人が犯罪や不道徳な行いをした際にその「作品」ごと世の中から抹消されてしまう状況にもつながるかもしれない。(※犯罪や不道徳の方は金が絡むからちょっと違うかもしれないが)

私だって、好きなアーティストが急に、私が全く理解できない思想を声高に語り始めたら、正直引くと思う。もしかすると、その人の作品ごと嫌いになるかもしれない。そうなりたくはないな、と思うけれども、こればかりは何とも言えない。

結局のところ、私はとてもワガママで、楽しいものだけを見ていたいのだ。

そうなると「芸能人は人格を持ってはいけないのか?思想があってはいけないのか?」という話になるが、そんなことは無い。ただその「人格や思想」が見たくないものであったときに「へー、そういう考えなんだ。全く理解できないな」と思ったあとに「それはそれ、これはこれ」と切り離して考えることも必要なのかもな、と感じた。

いわゆる芸能人やスポーツ選手など、かつてはメディアを通してしか、その人達の発信を知る手段が無かった仕事の方々が、ネットによってメディア以外の方法で発信をするようになったことも関係しているのだろう。垣根がなくなった、距離が近くなった、というのは良いことなのかもしれないが、逆にこういった事態を発生させることにもなる。

そして、これは突き詰めれば、自分の身の回りの人間に対しても言えることなのかなと思う。例えば会社の同僚が全然私が理解できない政治思想を持っていたとしても、その人と仕事をしないという選択肢は無い。それはそれ、これはこれとして仕事はするべきだと思う。

奇しくも、昨今よく言われるようになった「ソーシャルディスタンス」という単語だが、これは物理的な距離だけでなく、人との距離感という意味でこそ、使われるべきではないのだろうか。

上手く説明できているかわからないけれども、最近思ったことでした。


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