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文章書きリハビリ

テレワークに伴い始めたnoteだったけれど、テレワークの終了に伴い一切触らなくなってしまっていた。怠惰。
しかし、弊社では昨年の10月あたりからまたテレワークが始まっており、現在まで続いている。前回よりも長い期間、オフィスに出社していない。

本当に何もない、繰り返しのような毎日なので、書けるようなこともなく、すーっとフェードアウトしてしまった。

そうなると、仕事のメール以外に文章を書くこともなくなってしまうので、少しリハビリのために、何か書いてみようと思い立った次第。


私が好きなサザンオールスターズの「私の世紀末カルテ」という曲がある。
その曲の出だしの歌詞は、こうだ。

家に帰るとテレビが無くては生きていけません
嘘でもいいから刺激が無くては死んでしまいます


仕事が終わり、帰宅した部屋の中で一人、コンビニで買ってきた弁当でも食べながらテレビを見て、画面の中の「嘘の刺激」を何もない自分の人生に溶け込ませる。
それが20世紀末におけるステレオタイプの人間像だったのだろう。

20世紀末に書かれたこの歌詞が、今の自分に良くも悪くも刺さる。
既に世紀末からは20年以上も経った今では、この「テレビ」の部分は「ネット」や「スマホ」に代わるかもしれない。
そもそも、このコロナ禍においては「家に帰る」という行為自体が無くなってしまった。
通勤って意外と刺激的なものだったんだなぁ、と思ったりもする。
緊張と緩和があるからこその「刺激」なんだろう。

もちろん、20世紀末においても自宅で作業をしている人などたくさんいただろうけれど、そういう重箱の隅をつつくようなツッコミは、どこかの国の偉い人の失言などにぶつけてほしい。
こっちはただの底辺サラリーマンなのだ。

2021年現在、テレビはコンプライアンスによって「刺激」を抑えられ、人々が求める「刺激」の主役はネットに移り変わってきているように感じる。
ただ、以前と違うのは、ネットでの「刺激」は受動的なばかりではなく、能動的なものでもある部分だ。
例えばこのnoteのような手軽な発信行為は自分自身に「刺激」を与えるものでもある。

とにかく、家に閉じこもってばかりいると「刺激」が欲しくなる。
かといって、ふらふら外に出歩くわけにもいかない。
「刺激」を求めて、ネットを徘徊し、いろいろなものを見たり、聞いたりもする。
ただ、ずーっと家の中で仕事していると、どんなものでも「部屋の中で見ている」ということで、なんだか「刺激」を感じなくなってきてしまっていることに気づいた。

当たり前のように「通勤」があった時にはあまり意識していなかったのだが、「何を見るか」だけではなく「どこで見るか」ということも、人間の感じ方には大きな意味があるのかもしれない。

特に結論とかは無いのだけれど、このように数か月放置したnoteに何か書こうと思ってしまうくらいには、退屈な毎日を過ごしています。

20年経っても、結局あんまり変わっていないのかもしれません。

何かしないとなー、と思いながらも、今日もまた適当に過ごしてしまうのです。

本当にただ書いただけみたいな文章になっちゃったけど、いいのです。リハビリなのだから。最初は歩くことだけを考えるのです。

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