見出し画像

ずっと目を閉じる 2023/02/28 ボボボブログ 雑日記

話の種

  • 以下の文は思い付きで目を閉じてタイプしています。

  • 大好きでもすぐに別のキャタになっったみたいに飽きることができちゃっや値する。そういう時に他人とのつながりがないとそのキャタを維持できない。でもそれは毎回ヴァントすきだし心から感動している。社会的キャラはないと感動できないわけでもない。ただ維持するためだけに一役買ってる。

  • 1年間カレンダーを貼り続けていた去年はやはり時間の流れが特殊だった。

  • 日記を毎日書いている今も大概時間の流れが不思議な感じはする。すごく最近のような感じがする。時間の名晴れが早いかと言われたエアそうじゃない気がする。

  • 自分の考えていることに耳を傾ける・感じていることにも同様に。それを意識していつも日記としてアウトプットを意識しているのだsけど、これもはや普通に目デュテーションだよなぁ。

  • ちなみに今人生で初めて目クォとじて。`00&&目を閉じて日記を書いている。指先の感覚だけを頼りに、持っている知識と一握りの間で一歩ずつ歩を進めているどのキーを間違えるのかというくせや、あとは単純に触角の集中してタオぷするのが気持ちよくてやっている。正直どれくらい誤字があるのか、どれくらい読みにくい文章になっているかs樹ごく期になる。

  • でもなぜだか一番正直なものがアタ海人から表出しているような感覚がなぜか会えう、あm今噛んで行ったのミスったなーとか意外とわかるのがウケる。そろそろめを開けちゃおうかな。

  • 以下は目を開けてタイプしています。

ブラインドタッチ

自分は小さい頃から突発的に、そして定期的に視覚や聴覚を封印してみることがある。初めてやったのは小学生ぐらいの時で、学校が休みで一日中時間がある時にやったりしていた。家にいた家族には事前に断って、トラブルがあった時には助けてもらえるようにしていた。みんな快く承諾してくれていた。視覚は一回大体5時間ぐらいで、聴覚は3時間ぐらい。この行為は受け取り方によっては不謹慎にも捉えられてしまうかもしれないのだが、正直自分は全くそうは思っていない。
自分には発達障がいの兄がいる。今思えば、中学1年生までほぼ毎週行っていた教会でも、頻繁に何かしらの障がいを持つ人と会う機会があった。だからかはわからないが自分はいつも、自分が障がいがなく(少なくとも今判明している限り)生きているのはたまたまなんだろうな、生きている間にいきなり何かしらの障がいを抱えたり、判明したりするんだろうな、という可能性をぼんやり見据えていた。ただ、それを見据えていた事と、何時間も目を隠したり耳を塞いだりといった行動をとっていたのとにはあまり因果関係がないような気が直観的にする。もう少し純粋に、ただただ他者の世界を理解したいような、そんな直感でなんとなく行なっていた気がする。

結局、いつでも見たいときにまた見れる人間と、見たくなったとしても見ることができない人間は本質的に違うという事、あくまでも疑似体験でしかないという事を言葉に起こすまえから理解していたのだろう。区の図書館から点字のついてる本を事前に借りてきて、小学生ながらにぺたぺた触っては、点字読むのむっず!めっちゃ触覚鋭くないと無理じゃん!すげぇ!みたいなそんなことをやっていた。あと覚えている衝撃的だったことは、本当に地味なのだが、自分が生まれ育った家の間取りの間隔を全然把握できていなかったこと。闇に手を伸ばしながら歩いて、いい加減現れるはずの壁が全く現れなかった時の感覚はとても奇妙だった。あと覚えているのは平衡感覚が曖昧になること、タッチスクリーンが超絶不便になる事、指先の触覚が意外と気持ちいい事とかそんな感じ。あ、あと家の階段も怖かったなぁ〜。まぁでも小学生だから本当に深いことは考えていない。というか、正直今だに、5時間とまではいかなくてもさっきのタイピングのように突発的にやってしまうことがあってそんな時も大概特に何も考えていない。無意識的に今の自分が経験している世界が偶然の産物であることを意識したいのかもしれない。別の分岐を辿った、2mm隣の認知できないくらい薄っぺらな自分は目が見えていない気がする。散歩好きな自分は前世は散歩好きだったのかもしれない、と思うのと同程度の根拠のなさなのだが。

モラル偏差値

ここから先は

2,490字

¥ 100

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?