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正義の盾 2023/03/09 ボボボブログ 雑日記

話の種

  • 墨子は弱者の味方Lv. 100

  • 自分の正義という盾をがっしり握りながら相手を攻める人が好きじゃない。自分の正義を変容する覚悟がないのに人の正義を否定できると思う傲慢さが気に食わない。

墨子について軽く学んだ

墨子について学んだことを軽くアウトプット。
彼はいわばアバター2ガチアンチ。家族を愛するように人を愛しましょうと言った孔子に対して、お前それは愛の差別をしているだろ!!と怒った。どう言うことか?

墨子は戦争がなぜ生まれるのかを憂いていた。当時、春秋戦国時代は、ないしは第二次世界大戦までの世界では、自分の国を守るために他国を侵略するのって当たり前じゃん?って感じの善悪観だった。

しかし、墨子はこれに対して、盗人が人からものを盗むのは悪なのに、国単位になった途端に略奪が正当化されるのはおかしい、と言い放った。孔子に対して言い放った愛の差別とはつまり、愛したい人、例えば家族は愛するけど、それ以外からは奪ってもいい、ってことになっちゃうでしょうが!という考え方である。

墨子の場合、孔子と同様、自分の語ることに対する覚悟が異次元だった!なんと墨子は、自分の考えに賛同する人を大量に集め、組織化し、武装させ、大国に蹂躙される弱小国に味方したのだ!彼らは城の籠城戦のスペシャリストとして守る戦争を幾度となく支援した。なんなら籠城戦用の新兵器の開発とかもしてたんだって。凄すぎぃ〜〜



盾に逃げるな

自分の正義という盾をがっしり握りながら相手を攻める人が好きじゃない。自分の正義を変容する覚悟がないのに人の正義を否定できると思う傲慢さが気に食わない。

そいう人にどう対抗すればいいのか?と考えた時に、自分はついつい目には目を、歯には歯を、をしてしまう。相手ががっしり握った盾の隙間を、圧倒的正義とされるものを抱えながら刺そうとしてしまう。それで、ね?そんなことしても堂々巡りでしょ?って顔をしてしまう。ただ自分はそれを無意識にやってしまっていたのがよくない。
改めて言語化しても、まぁ悪い対処法ではないと思う。しかし、それが自分の本当に取りたいコミュニケーション方法ではないのでずっと苦虫を噛み潰すような想いだった。それを説明できずにやっていたのは本当に未熟だったと思う。

自分の中のコミュニケーションにおける一つの信条は、まとめると、「自分の中の正しさを疑う覚悟がないのに人と対話するな」になると思う。

その信条を持つ自分は、人の愚痴を聞くのが耐えられないくらい苦痛なのである。愚痴というのは、被害者が、加害者のいない場で自分の受けた被害を悶々と、おもに共感のみを求めた状態で語る状況を言う(とする)。ではいったいなぜ苦痛なのか?

  1. 愚痴を垂れる被害者は多くの場合、自分の非を学ぶ意思が微塵もない(盾のみを固く握り、自身の弱さに目をむける意思がない)

  2. 聞かされる僕は、加害者の事情を聞く機会がない(加害者は盾を抱える機会がないまま一方的に叱咤されることになる)

  3. 共感のみを求められるので、自分が被害者に対して思う非を言うことができない。僕が僕の信条に違反することだけを強いられることになる。


上記2テーマを土台に思ったこと

墨子は自分の正しいと思う信念に基づいて多くの人を救ってきた。自分の信条は間違っていないと思うからこそ、というか、そうじゃないと人はそこまで行動を起こすことができないと思う。
その点において、自分の信条、「自分の中の正しさを疑う覚悟がないのに人と対話するな」は極めて保身的で、新たな行動を起こすような信条にはならないのかもしれない。なぜならこの信条は、この信条自体を疑うことも含めなくてはならないからである。
そういう意味では、信条というものは全く譲れないものがあるからこそ信条たりうるのかもしれない。
というか僕の信条が言ってることって分解したら無知の知と言ってることほとんど同じなのでは。そんな無知の知を伝導し続けた彼が行なっていた活動は何かと言ったらただの啓蒙活動な気がする。でも現代で啓蒙活動なんかしてたらただのヤバいやつじゃないか、、?
皆さーーん、自分の非を認める覚悟がないのに人と話し合いしちゃダメですよーーとか言ったところでいいことあるのか、、?
自分の将来やりたいことが決まらないので、自分の信条を基にやりたい事を少しでも具体化できないかと思案する僕です。

では、また

斎家リック

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