農村の暮らしと、人と関わるということ

昔の農村の生計の立て方

私達のお寺のある地域は、新潟県内によくある田んぼを中心とした農村地域。
お参りの中ではそうした農村地域でどんな生活をしていたのかという話題がよく出てきます。

昔はほとんどの家が農家であり、自分の家の田んぼで米を作って生計を立てていました。
田んぼだけで家族を養えない場合は、家に蚕を飼う養蚕業や、体力のある男性が雪に囲まれる冬場に雪の少ない地域に単身赴任しての酒造りや土木業などに出稼ぎに行くという方法をとる家もありましたが、生活の基本は農業にありました。
蚕のことを「おかいこさん」と呼ぶ高齢の方がおられますが、自分たちの生活を成り立たせてくれたありがたい存在として見ていた証だと思います。

農村は人の助けが必要

米づくりといえば田植え、稲刈りのイメージがありますが、今のような機械で行うのとは違い、昔の手で植える、刈るという作業は多くの人手がないとなかなか終わりません。
自分たちの家族だけでなく、親戚や近所にも手伝ってもらい、田んぼ1枚ずつ作業を行っていきます。もちろんお互い様なので、親戚や近所のところにも手伝いに行きます。
子どもも動員しての作業となるので、学校でも田植え休み、稲刈り休みがあったほどです。(農村地域の家の子どもが多かったのはそうした戦力が増えることを期待した面もあります)

また、ただ田植えをして、稲刈りをすれば終わりではありません。
田んぼを維持する作業が必要となります。
田んぼにつながる水路やため池の管理、畦道や山、川の整備など、みんなが農業をするために必要な公の作業が発生します。
そうした作業は集落の人が全員参加で行います。

そういった意味で、農村地域は親戚、隣近所、集落内の住民など周囲の人と協力しないと生活が成り立たないという面がありました。
よく田舎は良く言えば「人間関係が濃密」、悪く言えば「しがらみが多い」と表現されますが、ある種の運命共同体、自分たちの命を託す仲間という一面があったため、濃密にならざるを得なかったとも考えられます。

葬式も共同作業

それはお葬式の場面でも見られました。
今のホールで行うお葬式と違って、家で行う葬儀は様々なやることが発生します。
葬儀の段取りは親戚の長老、お勝手(台所)でお茶やお斎を用意するのは近所の女性陣、棺を運ぶ・荷物を運ぶ・火葬の見張り番などは体力のある近所の若い男性…など、それぞれ自分のできる役割を担って、1人の人を見送っていきました。
50年ほど前は火葬も集落ごとで行っており、その燃やすための焚き木やわらなどは各家庭から少しずつ供出して行っていました。
まさに近所総出で行う手作りのお葬式だったと言えます。

これからの農村地域は?

最近は田んぼを手放す、または大農家に米づくりを依頼する家が増えました。
機械による農業になる中で、1台数百万円の機械を購入して、米づくりを続けるのは米価格が低下する中で兼業農家には負担が多すぎるという面があります。(しかも作業によって異なる機械が必要なため1台だけではなく何台か必要)
多くの家が田んぼを作らず、会社員の働き方となる生活の中で、農村地域でも親戚や集落内の人と協力し合う関係性をそこまで必要としない、必要としなくても成り立つ生活スタイルになってきました。

それはお葬式という場面でも、隣近所の人が参列することが少なくなったという変化が見てとれます。
家族葬が増えた背景には、昔は故人と喪主の人間関係が集落内でほぼ重なっていたり、喪主が故人の人間関係を把握していたりしたのが、今や全く重ならなくなり、把握していない喪主が増えたということも一因として考えられます。喪主からすれば、知らない人を葬儀に呼ぶという抵抗感は結構強いのではないでしょうか?

生活の中で近所の人が関わる必要性が薄れてしまった現代において、今までのような人間関係の濃密な農村地域の生活を取り戻そうというのは無理がある話かもしれません。
都会的な生活と農村的な生活が混在しているような、ある意味では過渡期の時代を生きています。
その上、町内活動もコロナで縮小したここ数年は特に人間関係の希薄化の傾向が顕著になりました。

おそらく今起こっている問題というのは、人とどのような関わり方、距離感が良いのかという認識が人によってバラバラで、揃わないことにあるような気もしています。
昔は「協力しあわなければならない」「協力しないと生活に困る」という認識でおおむね同意できていたことが、今やその必要性が薄くなったことで「人とそこまで関わらなくてもいいよね」というような、認識にも幅が広がってきました。(特に世代間のギャップが大きい)
逆にいえば、今までの共通認識で話を始めるのではなくて、どんな近所との関係性を構築していくのが良いのか、望ましい地域との関わり方はどんな形か、住民の認識、目線をわかり合うところから始めるのが大切なのかもしれません。

仏教や浄土真宗の視点で見ても、人間は煩悩だらけで「いかり、そねみ、はらだち」が一生消えないという面倒な存在であるので、本来は人間と人間が関わり合うというのは、問題が起こる可能性の方が高いものです。
人と関わる、協力する行為は問題を起こしにいっていると言っても過言ではありません。
それでも人間が太古の昔から群れで生活をしてきたのは、外敵から身を守り、次の子孫を産み育てるという生存環境のためだった、助け合いがなければ生活できなかったからしょうがなくやっていたのかというと、そうだと頷けない自分がいます。
一緒の釜の飯を食べる、みんなで汗を流す、共通の体験をするという、人と関わり合う中で生まれてきた”何か”が、人生の豊かさに及ぼしてきた影響は侮れないのではないかと感じています。
なるべく人と関わることを避けようとする人が増える中だからこそ、実は人と関わる中にある「価値」というものは輝いて見えてくるのかもしれないと密かに予想しています。