謎のブーム「墓じまい」

「うちの家も墓じまい考えなきゃいけないと思ってて…。」

最近、こういう話を切り出されることが多くなってきています。
少子高齢化の現代では家のお墓を守る人がいない家族が増えてきているのは確かであり、メディアでもそういうニュースが取り上げられています。

しかし、よくよく聞くと疑問符の浮かぶケースも多々あります。
特に、子どもが同居していたり、または近くに同じ苗字を名乗って住んでいたりする方でも、墓じまいの話題が出るのです。
今までの感覚からすると、そのままお墓が継続されていく状況の方々です。

なんで墓じまいが必要だと思うのだろうと思って話を聞くと、「周りが言っているから自分も必要だと思って」や「子どもに負担をかけられない」ということをおっしゃる方が多いのです。

これはどういうことなのでしょうか。

昔から子どもがおらず、跡継ぎのいない家庭は、親戚関係から養子をもらって家を相続するという方法をとってきました。
それが時代を経て、跡継ぎをとらずに家が絶える家庭も出てきたことから、絶えた後も親戚が面倒を見られる間はそのままお墓を管理し、管理ができなくなってきた段階で墓じまいを行うということが増えてきました。
私達のお寺でも墓じまいのお話が多くなるとともに、誰でも入れるお墓を求める声が高まってきたことから、数年前に合同墓を建立しました。

ここ近年で私達のお寺でも多いのは「お墓の引っ越し」で、地方の集落にお墓があったが、子どもが別の地域に居住している家庭では、お墓を子どもの居住地域に近いところに移転させたり、地方の集落墓地(街中ではお寺にお墓があるイメージが多いと思いますが、地方の集落に行くと集落ごとに墓地があります)は傾斜地を登る必要のあるところもあり、お墓自体を平場に下ろしたりということが行われています。
家のお墓自体を今までの場所で維持管理することが難しくなってきたという状況は多く見られるようになりました。

この墓じまい風潮は、「家を守る」という発想が薄くなってきたことが影響しているのだろうと推測されます。
たとえ長男であっても、昔のように田んぼをはじめとした土地、家などを守る必然性が薄くなり、そこには付随する親戚付き合いや近所付き合いも発生するので、なるべく家からは遠ざかりたいという本音も見えてきます。
「家のことを次世代に渡す」ということが「資産の相続」から「負債の相続」に変わってきたとも言えるかもしれません。

しかし、お墓ということになると、少し別の話のような気もしています。
ご先祖様、特に亡くなった肉親のお参りをするという感覚や習慣は、子どもや孫の世代でも残り続けています。
これは結婚をして苗字が変わったと言っても、親はやはり親であり、自分の実家の家のお墓参りをしたいという気持ちはあり続ける方が大多数ではないでしょうか。
そのときに家が絶えたからといってお墓がないと、お参りをしたい気持ちのやり場がなくなって、実は困るのは子や孫の世代ということになりかねないとも言えます。
日本人の葬送観にお墓が大きく関係していることはやはり否定できません。

あと、これは子ども世代の方のお話の中で感じるのは、いずれ自分も亡くなる立場になるという視点は忘れられがちということもあります。
どこに埋葬されるのかはどこでも良い、子どもが決めてくれたらそれでよいという話もありますが、それは後を任された方が困る姿は想像できます。
それこそ埋葬方法が多様化していて、夫婦2人分のお墓や個人で入る樹木葬などもありますが、その都度費用も発生します。

お墓自体は既に建っている状態であれば、維持管理にそこまで膨大な費用がかかるものではありません。
もし本当に子どものことを思って負担をかけないようにしたいということであれば、ご自身で墓じまいをしなくても、お墓の当面の管理費用や処分費用を見越した分のお金を渡して、どのようにするかは子どもに任せるということで良いはずです。

この「墓じまい」ブームは、従来の「家」制度の揺らぎが巻き起こしているものかもしれませんが、一方で相続ということの家族同士のコミュニケーションを求められている契機と考えています。
家族、親子でこれまで見ないふりをしていた、後に回してきたことが表面化してきた問題とも言えます。
それはお墓に限らず、何でもそうですが、何を渡すのか、残すのか、何を受け取るのか、保ち続けるのか。片方が勝手に決めるのではなくて、それぞれの関係する人と一緒に話す中で、最適な道筋をつけていけるのが望ましいのは言うまでもありません。
相続するものが資産なのか、負債なのかは、捉え方次第の実は曖昧なものです。だからこそ、コミュニケーションをとる中で、大事なものを相続してもらう、相続していくという認識が共有されると良いのではないでしょうか。