星組「ロミオとジュリエット」宝塚千秋楽ライビュ

星組さん天才だ……。「ロミオとジュリエット」千秋楽おめでとうございます。一人や二人の悲劇ではなく、生きることそのものにまとわりつく悲劇が幾重にも重なったこの作品が、それぞれの役があまりにも完璧で、重なりそのものが美しく、鮮やかに見えて素晴らしい……。今日のA日程も好きです。

動かなくなったジュリエットを霊廟に運ぶ直前、彼女にウェディングドレスを着せたのは乳母だろうか。自分で縫ったウェディングドレスを死んでしまった我が子に着せる乳母の心情はどれほどだろう。そのドレスを着たジュリエットが、一度目を覚まし、そして自らの手でそのドレスの上から、愛のために胸をナイフで刺した、という事実を、血に染まったドレスによって知るなんて、あまりにも残酷だ。乳母の、ジュリエットへの愛が無限に見えれば見えるほど、全ての人の愛に応えるように生きることができなかった、二人だけの愛を守り通すことしかできなかった、ロミオとジュリエットのことを思ってしまう。

友の恋を本当の意味では否定せず、行末を案じて反対するにとどめていたベンヴォーリオも、マーキューシオの遺言「愛しぬけ」とともにこの事実に向き合わなくてはならなくて。自分が、ジュリエットの死を伝えてしまった、というのもあるけれど(でも彼は友達で、伝えるしかないのだ。「どうやって伝えよう」のとき、もう彼は昔の、楽しいことや嬉しいことを共有して笑い合っているだけが友情ではないと知ってしまっている。友達が一人死に、友達が殺人を犯し、そうして彼は憎しみから逃れる生き方もあるのだと気づいてしまった。楽しい日々が友情を作るのは子供たちの間だけで、苦しく恐ろしい時間を、ともにするのも、友達なのだと、彼は知った。彼にとって、あの時すでに青春は終わっていた。)それ以前から、彼もマーキューシオも、ロミオがジュリエットを愛したこと自体を侮辱したりはしなかった、そのことさえも間違いであったかのように、思える結末がそこにはある。

瀬央さんのベンヴォーリオは、一人の青年の成長物語的になっているんだなと思った。破綻した街でも、仲間たちと楽しく生きていける、永遠に続きそうにも思える刹那的な青春に生きる人が、愛に目覚め、それを意地でも手放さない友人のロミオによって、妥協のはざまに輝く青春ではなく、本当の意味でずっと続く幸福と人生を手にしようと目覚めていく話。ティボルトとマーキューシオの対立の場面で、「誰もが自由に生きる権利がある」というロミオの歌にベンヴォーリオは感化される。あのシーンから、瀬央さんの顔つきが完全に変わっていて、それからずっと別人みたいなので、驚いた。あれは、女性たちが投げかけた犠牲を払わない「憎しみを捨てよ」という言葉とは違う、彼に届く言葉だった。甘えもあるロミオが友人たちに背を向けられても愛を貫こうとした、その先の言葉だからだからだ。ベンヴォーリオは自分の青春のきらめきで肯定された日々を捨て去ってでも、「憎しみに縛られて生きる必要なんてない」と気づく。けれど彼の成長はマーキューシオを救うにも、ロミオを救うにも、ジュリエットを救うにも遅すぎて、何もかもがもう後戻りのできないところに行き着いて、彼は、ただ自分や仲間の「過ち」が理解できる大人となって置き去りにされる。成長物語として見るにはあまりにも残酷だけれど、この物語は誰よりも、ロミオとジュリエットの二人を愛した、ロミオとジュリエット以外の人間にとって、最大の悲劇であって、ベンヴォーリオのこの見え方はすごく、ロミオとジュリエットの悲劇を完璧なものにしてしまっていると思う。生き残ってしまった人間が、最も不幸に見えてしまう。

パリスは綺城さんと極美さんで演じ方が全く違っていて、けれどティボルトとのバランスがそれぞれすごく絶妙で面白かったな。「本当の自分じゃない」と歌うティボルトのあのシーンは、愛月さんのティボルトは、自分が自分でないまま生き続けることを受け入れて、むしろその矛盾を狂気と強さに意図的に変えている男性だと思うけれど(でもジュリエットのことも諦めなければならないのか、と思うとこの部分がぐらつく)、瀬央さんのティボルトは、この矛盾を捨て去りたいと思いながら、もはや自分というものがわからなくなっていることの悲痛さがあり、その中で自分が変わらず憧れているジュリエットへの執着のような恋がある。だから瀬央さんのティボルトには、明るくて能天気に結婚の申し込みができる極美さんのパリスは敵視すべき存在だし、愛月さんのティボルトには、自らの生まれをきちんと力として理解している綺城さんのパリスが心底腹が立つだろうなとおもう。綺城さんのパリスは自分がどういうふうに他人に言われているかはしってそうだし、でもばかげた嫉妬だと一笑に付してそう。そういうことを言われて、生まれだけで偉そうにと言われたら少しは落ち込むのが人間というものなのにそこをすでにクリアしている彼は、愛月さんのティボルトにとっては、後継の自覚を持たないロミオよりもある意味ではムカつくし、鼻につくんじゃないだろうか。あと、家柄もお金もあるパリスがジュリエットと結婚するのはなんの得もないことなので、綺城さんのパリスだってほんとにジュリエットが好きなんだとは思う。あのアプローチの下手さは断られる可能性をあまり考えてなかったからなのかなあ、と思った。

ロミオとジュリエット、本当に素晴らしくて、星組のことがとてもっつーかだいぶ、かなり、相当好きになってしまいました。役代わりはすごいな、あれはそれぞれの演者さんのよさが、立体的にわかってしまって恐ろしいな。右目と左目で見ると遠近感がわかるみたいなことやな。しかも全員めちゃくちゃいいっていう……。私はB日程で、綺城さんの歌に完全に心がやられていまだに瀕死で、優しくて悲しい人、とおもうしかないあの歌声がとても好きなのです(前回のnoteで書きました)。そう思ってからまたパリスを見ることができてよかったし、歌がうますぎるし声が綺麗すぎる……。綺城さんのパリスは歌そのものがなによりも「パリス!」「あのパリス!」みたいな印象を残していくから、一度だけの歌のはずなのに、名前が出るたびに思い出され、ジュリエットが拒むたびに、父親が結婚しろというたびに、あの「パリス」が脳裏に掠め、「お父さんひどいな……」って思えてよかったです。でも極悪人とかではなく、癖が強い人という見え方をしているのがなんだかんだあの世界観の中では平和で、明るくていいな。にしても癖が強い人の方が喧嘩している人より嫌われてるの悲しいですね、現実もそんなものかも知れませんが……(急に重い事を言うな)。

それにしても好きになる演者さんはそれぞれ新しいものを教えてくれる。ミュージカルの歌がもたらすもの、感情表現としての歌の多様さを、綺城さんが教えてくれたと思っています。

東宝も楽しみです!


以下は作品についてのメモ書き

星組のロミジュリ、最初から全力で治安が悪く、暴力狂気憎しみが渦巻くけれど登場人物は皆美しく、舞台だから凶器はあっても血の赤は見えない。流れているはずの赤が見えないことがむしろあの耽美的な場に拍車をかけていて、鮮やかな赤が彩ってしまう本当の彼らの世界を、客席に美しい幻として見せる。だから死に辿り着く若い二人が悲恋ではあるが美しい結末のように見え、全てが裏返されるように暴力と憎しみの愚かしさが証明される。

マーキューシオが死ぬシーンをオペラで見てるとそのまま舞台の盆が回って、マーキューシオが落としたはずのナイフがオペラの視界に入ってきたんだった。そのことを思い出した。それに観客が気づくと同タイミングで、ロミオも、ナイフに気づく……客がオペラを見ている前提で作られた演出なのかな。まさか。いや、でも。残酷なほどにいい、凶器や暴力が徹底して演出に飲み込まれて宝塚作品になっている。

礼さんのロミオはあの世界の清涼剤のようで、でも、誰よりも突き抜けた選択をとる青年でもあり、私はロミオが怖いような、でもロミオを囲む世界のほうが怖いような、よくわからない気持ちになる。ジュリエットは薬で仮死状態になることに「恐れやしない」わけだけど、死んでしまった彼女を見て自分もとすぐに毒を飲むロミオの方が、本当はとても激情的で、感情に全てを絡め取られる。それなのにこれは、純粋な、やわらかな、平和を呼ぶための愛でもある。このロミオの底の見えなさが礼さんの1回目の「僕は怖い」で全て完成しきっていて、死を恐れるロミオは、死が自らにもたらす絶望の大きさを見えないままで予感しながら、その姿で、愛がいつか自分にもたらす恐ろしい選択も、同時に予感させている。


これまでに書いた星組『ロミオとジュリエット』についての記事
B日程配信感想
瀬央ゆりあさんのベンヴォーリオについて
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