星組ロミオとジュリエットB日程について

星組ロミオとジュリエット(B日程配信)、超いい〜!超いいよ〜!ロミオをやるために生まれてきたような礼さんと、儚さという言葉も強さという言葉ももったいなくなるような舞空さん、そして舞台全てを満たしていく愛月さんの死、鋭さそのもののようで傷口そのもののような瀬央さんのティボルト、有沙さんの乳母……!有沙さんの乳母にもう心がバキバキにされ、歌声によって心が本当に掴み取られて揺さぶられて、そのままエメに突入するというとんでもない体験でした。自分の感情に飲まれて死んじゃう。フィクションだった「ロミオとジュリエット」が急激に「私」の体験になったような、そんなところまで連れていく有沙さんの歌声だった。それはたぶんロミオとジュリエットのような夢見る恋心でも、ヴェローナの民のような憎しみに囚われた意識でもなく、1人の身近な人を思う女性の、ささやかだけれどとてもしなやかで強い気持ちがそこにはあるから。あの歌を聴いたら二人の恋がどれほど夢物語でも、叶ってほしいと思うし、その先でエメなんだもん。エメなんだもん……。

役がそれぞれすごく合っていて、どれもめちゃくちゃ新しい視点をくれる。愛月さんの死がまず舞台全体を支配してしまう、その瞬間に広がるヴェローナの混沌、その中に生きるティボルト、ベンヴォーリオ、マキューシオ、女性たちの嘆きに反発するティボルトの声は一瞬少年のようで、それだけでティボルトが狂気とはまた違う存在に見え始める。その直後に現れる、この街で生きるにはあまりにも無垢だと一瞬でわかるロミオ。ロミオには大切な友達がいる、友達を案じるからこそわかる、死の気配。死と背中合わせに生きて、何も知らないわけじゃない。でも同じような立場のはずなのに、幸運にも無垢に生きていられるロミオを、ティボルトはどう見るだろう。彼がジュリエットを連れ去ることは? ロミオとティボルトの対比の物語だと思っていたのに、ロミオの無垢はティボルトも持つもので、この無垢は「死」との対比だと気付かされる。死が満ちたこの街そのものとの対比だ。ロミオもティボルトも、死の前では同じ無垢な青年だった。

死の満ちたヴェローナの街を切り裂くように現れたロミオは、その瞬間はとてもその街の希望のようで、死に一人呑まれず、天使のようで、だからこそベンヴォーリオやマキューシオや仲間たちに大切にされているんだろうなって感じるんだけれど、でも一方で死を最も近く感じているのもロミオで。みんなが立ち去ったあと、ロミオと死だけの舞台で「僕は怖い」を歌い上げる。無垢であるけれど、愚かではなく、だから他者を思いやる彼は、誰よりもこの街の狂気に鈍感になれず、いつまでもそれを恐れ続けている。恋に恋する瞳や、みんなだって分かり合えるはずだと信じる心は、幼稚さゆえのものであることは明らかで(だから結婚後ロミオの思惑とは真逆に、二人は街に混乱を呼んでしまう)、でもだからこそ、うまく何かをできるわけではないのに、解決できるわけではないのに、鋭敏に何かを感じ取ってしまう若さの痛みが現れている。そんな青年こそが他者からすると「愚か」で「狂った」選択をとるのだ、その人たちの色褪せた世界にとっては。
ロミオが「僕は怖い」を歌うことで、ティボルトの無垢さが静かに浮き彫りになっていく。怖くても死とともに、死に呑まれていくように生きなければならないティボルトの無垢さ。ジュリエットを奪われたこと以上の憎しみや苛立ちがあるだろう。二人は本質的には同じ繊細さをもち、同じ無垢さを持っている。立場や家族や仲間の違いでこんなにも変わってしまっただけのようにさえ感じる。

ロミオとティボルトの二人だけが対立するのではなくて、時に死と対立する二人、というふうにも見えるのだ。死の恐怖にあらがいつづけ、不安の中に生き続けたロミオと、死の恐怖を拒む術を持てず、恐怖に飲まれる代わり自分も恐怖を利用することにしたティボルト。ロミオとジュリエットは、ヴェローナの民が殺したようなもの。でも、ティボルトも、マーキューシオもそれは本当は同じなのだ。二人の死は愛のみによって染められていて、だから、人々に罪の意識を持たせたけれど、そうでなかった死がこの街に既に無数にあったことが、もう一つの悲劇として感じられる。ティボルトの死では、マーキューシオの死では、この街は変わらなかった。その悲しみは、きっと街全てを染めるような愛月さんの死と、純真さにも冷たさにも感じられる、深みのある瞳を持った瀬央さんのティボルト、そして無垢でいて、そこにはただの「汚れのなさ」ではなくて、あの頃にしか持ち得ない柔らかな産毛みたいな感性を宿した礼さんのロミオがいるから垣間見られたものなのだろうな、と感じた。

にしてもフィナーレ……フィナーレ……!演目のお化粧のまま踊られるのが、こんなに効果的に見られるなんてすごいな。愛月さんの死の化粧も、瀬央さんのティボルトの化粧も、群舞において見え方が一気に変わって、このあとでまた同演目見たらまた色々変わっていきそうですし、A公演のフィナーレはどうなっているの?というところがもう想像するだけで……緊張します。星組さんはコロナでお披露目公演のチケットが紙くずになってしまってから、ライビュが仕事で行けなくなったりとか、ご縁がなかなか持てなくてずっと悔しかったんですけどこうやってロミジュリ見れて本当に良かったです。てかロミジュリって面白い戯曲だな!シェイクスピアすごいな!(え?今?)

A日程も楽しみにしてます!


追記

勢い余って書いたから書けてないこともたくさんあって、追記してしまいます。止まらなくならないように気をつけねば……。とにかく書きたいのがベンヴォーリオとマーキューシオ。天華さんマーキューシオの死に際と綺城さんベンヴォーリオの「どうやって伝えよう」がめっちゃよくて、ここはそれぞれの役の見せ場だと思うんだけど、見せ場っていかにそれまで役を細かく積み上げてきたかが発揮される場所だと感じています。マーキューシオの粗暴さと生まれの良さの矛盾と、ベンヴォーリオのロミオをひたすら追いかけ続ける姿が、それぞれここで一気に人間味に変わるというか、キャラクターがキャラクターではなく人間になる瞬間として見せ場があって、いや、シェイクスピア怖、ってなるし、これに完全に綺城さんと天華さんが応えていて素晴らしいな。私は「なんでそんなに不器用なんだ」ってマーキューシオが言うのが好きなんです。なんでそんなに不器用なんだ、にどれだけの友情が込められているか。刺されて、最初にこの言葉が出てくることが彼の全てだよねえ……。今ここで自分は死ぬんだと察した人がまず最初に、死ぬ前にこれだけは伝えなくてはと思って言う言葉が「なんでそんなに不器用なんだ」。お前は悪くない、というより、お前は悪くない、と伝えている。この言葉があるから、「愛し抜け」(セリフうろ覚えです)も、遺言として鮮烈に響くんだろうな。ロミオは、無垢で天使のような青年で、皆に愛され、守られてきたけれど、誠実で正しくて純粋な青年は、友達にとっては「不器用」で、でもそれはどんな美しい讃美よりも、愛のある視線だと思う。美しい心を持つ人ほど、この世では生きていけないと知っている人の言葉だね。マーキューシオの粗暴さは最初からある設定で、そうなった理由とかは特にここには描かれていないのだけど、しかしこの言葉で全部回収されているなあ、と思う。ジュリエットと結婚するならもう友達ではいられない、と言っていたマーキューシオが、本当はそんなつもりでなかったこともここでわかってしまうんだ。いろんな期待と希望を抱いて、彼が結婚したことぐらい友達のマーキューシオはわかっていたのだろうな。

ベンヴォーリオ。彼はそれまでの「追いかける」とは全く違う形で、最後ロミオを追うわけだけど、伝えたあと、自分には何にもしてやれない、友を救えないことを思い知りながら、静かに去る。このときの表情は、友人たちに取り残され、現世で一人の大人になっていくこの人のこれからが詰まっていてとてもいい。冒頭の頃「そういうのはやめろ」とロミオに言われていた彼とは完全に別人だった。ベンヴォーリオって不思議なキャラクターで、大人たちには幼すぎて危なっかしいロミオの世話役を期待されているのに、同世代たちにはロミオのあとを追いかけてばかりだと揶揄われている。大人にとっては「子供の中の大人」なのに、子供たちにとっては「子供の中でも特に子供」みたいな立ち位置なのかな?それとも、大人に言われた通りに動き回る情けないやつ、みたいな視点なのだろうか?ベンヴォーリオ、そのわりに悪事にもすぐ乗るし。すごくまだらな設定が多いキャラクターで人によって演じ方がかなり違うのかなあーなどと、詳しくも知らないのに考えていました。綺城さんのベンヴォーリオは、ロミオとマーキューシオより少し大人で、でも「子供たちの大人」でしかない、擬似的な大人、擬似的な親を担う「ら長男」感のある人物だなあという印象。のように率先して悪態をつく人間がいるから、それを先回りして止めたり、ロミオのように純粋に暴走する人間がいるから、それを先回りして心配したり。でも彼の中にも刷り込まれた憎しみはあり、暴れさせられない感情はきっとある、でもそれをちゃんとコントロールしている。そしてコントロールするからこそ、憎しみを俯瞰し、それらに飲まれることに疑問も抱いている。マーキューシオのようにはなれない。でも、ロミオみたいにももうなれない。大人たちの価値観とは相容れないけれど、かといって「大人より正しい大人」になれない彼は、多分「無力」を一番強く感じているキャラクターなんだろうなと感じた。そういう人間が、それでもできる範囲で、友達と楽しく暮らしていこうとしていて、それはある意味で諦めて大人になっていく道であったはずで(ベンヴォーリオはそれを拒むだろうけれど、彼のような生き方をして大人になったのがヴェローナの大人たちではないかと思う。みなも青年期は悩み、疑い、苦しんだはず)、それなのに友達が死に、友達の恋人が死に、彼は諦めることもできなくなった。諦めたくないことが起きてしまった。友達が死んだのだ、もう、仕方ないとは思えない。自分が無力なのはしょうがないとは思えない。大切なものが奪われて、妥協としての「大人」にはもはやなれないベンヴォーリオが、最後、霊廟でセンターに立って歌うのだ。これからの時代を作っていく、本当の意味での「大人」として、彼はそこに立つのだと思う。