星組ロミジュリB日程/綺城ひか理さんのベンヴォーリオについて

いや、もう……。

歌声で心を射抜かれるという初めての経験をしました。これまでだって素晴らしい歌声には出会ってきたし、その度に心動かされていたけど、一本の矢が突き刺さってしまったみたいに、歌声そのものに気持ちが全部奪い去られていく感覚になったのは初めてです。現地で、B日程のロミオとジュリエットを見て、私は綺城さん演じるベンヴォーリオの「狂気の沙汰〜服毒」「どうやって伝えよう」に完全にやられてしまいました。もうあかん、なんでこんなことになるんかわからんけど、もうあかんよ……歌ってすごいな……この人凄すぎるな……。終幕後しばらく頭の中が大変でした、歌を通じてベンヴォーリオに出会ってしまった。

それはベンヴォーリオという人物像、というよりもっと内面にある思ったり考えたりするところ、それこそ感受性そのものが現れたような歌声だったからです。その人が何を思っているのか、考えているのかが歌詞になってはいますし、物語や設定があって、人物は描写されていますが、それは本当は外側のものであって、それだけが伝わっても本当は全てではなく、その人が生きていて、何かを思ったり考えたりする、その可能性だけが満ちた感性がさらけだされていたら、その人を待つ結末も、その人がたどった物語も、人生そのものに昇華されるのだと思います。感性は、綿毛のようなもの、産毛のようなもので、何かが起きたり誰かに出会うことでそれらは繊細に反応します。そのときの反応が「感情」や「思考」だけど、でも感受性そのものの存在を感じられたとき人は、その淡くて繊細なそれに、自分の心も撫でられたような感覚になるのです。ミュージカルがどうして、音楽とともに人間を描くのか、というと、言葉や設定や物語ではない、もっと本質的な、産毛のような部分がそれで見えるからだと思うのです。

綺城さんの歌はまさにそれで、世界や自分に対するその人の感性そのものが露わになっていて、言葉は息づくし、言葉以上のものが現れるし、ベンヴォーリオという人は「優しさ」そのものだと、見る前にも思っていたけれど、その優しさが、綺城さんの場合は「感受性」の話としてあるんだなと思ったのです。

他者の痛みを自分のことのように捉え、同じように苦しむからこそ、相手を思う「愛」としての「優しさ」と、他者の考えや感情を語られるより先に感じ取ってしまって、だからこそ現れる、「人」としての「優しさ」があり、綺城さんのベンヴォーリオは後者であるように思います。それは優しさというより、繊細さと言った方がいいのかも知れず、空気を読みすぎる、物分かりが良すぎる、というところにもつながります。瀬央さんのティボルトはロミオを殺すと決めてから、一気に纏う空気が変わり、それまでの幼さを抱えどうやっても脆くなるティボルトが、崩壊の道を自ら選び、自死するように狂気的な選択を取ることで、ある種の「解放」を感じさせ、ロミオが歌うのとは全く逆の「自由」を爆発させていくのですが、そうした変容をティボルトの態度で即座に気づいたのはベンヴォーリオでした。彼は、ティボルトが「ロミオはどこにいる」と言ったときから、何かとてつもない危険が迫っていると察知しています(私がそう見えたってだけですけど)。それなのに割って入ってくるロミオを引っ張り、ティボルトから距離を置かせている。けれど、ロミオはロミオで、「何もしらず能天気な青年」なのではなく「争いなんてやめろ」「誰もが自由だ」というとてもシンプルな、本当なら当たり前のことを言っている。ロミオは愚かなのではなく、その場の空気に染まらないただ一つのまっさらな人間であり、むしろそれは恋によってさらに強化されていて、そのことは、ロミオの言葉に反応するベンヴォーリオの姿で明らかになる。

全編にわたって、憎しみとはなんなのかはあまり詳しく語られません。それはこの物語の異常さを表すための設定だし、語られないことは正しいんだけれど、なぜそんなに憎しみ合い、そしてそれが若者たちに受け継がれてきたのだろう?という謎は浮かぶ。根本にあった原因はもはやあまり関係なく、対立するからこそ生まれる暴力や破滅が、また新たな原因となっていたのではないかと私は思います。ベンヴォーリオとマーキューシオは、ロミオの友人でもあるが、モンタギューのリーダーでもある。後継とリーダーは全く違う、リーダーは対立の前線に立つ者でもあるし、対立の理由を纏うものでもある。あまりそのことは描かれていないけれど、しかし、彼らがもっと若い仲間を引っ張って、喧嘩の場に来ていたことはきっと紛れもない事実だろうし、憎しみを与えられ、そして与える側にもなりつつあったはずだ。でもそういうことに無頓着である二人ではなかっただろうし、彼らは他者が暴力の渦に巻き込まれることには好感を持っていない(ロミオという友達がいるのが大きいし、それがモンタギューの少し穏やかな空気を作ってもいる)。ただ、自分たちが植え付けないでいても、子供たちは皆憎しみに体を馴染ませ、当たり前のように対立をしたがる。マーキューシオは、それらを止めることが不可能だと分かっているからこそ、自分が一番危険なところに飛び込むし、ベンヴォーリオは、前線に立ち、仲間を助けながらも、マーキューシオや他の人間を宥めることもやめない。ベンヴォーリオが、ロミオのように「全ての争いをやめろ」と言わないのは、それを考えていないからではなく、仲間達の憎しみや怒りに共鳴してしまうからだと思う。大人が「憎め」というだけであんな対立が生まれるわけなく、その結果誰かが傷つき、涙を流し、そうした痛みが彼らの日常に繰り返されていたのだろう。全ての対立はリアルタイムの復讐としてあり、その怒りや悲しみが分かってしまうから止められない。ベンヴォーリオは、リーダーだからこそ、簡単に理想を語ることはできないのだ。理想があることは言われなくてもよく知っているけれど。

憎むな、はありえても、許せ、はあり得ない場所というのはある。物語としてはロミオは純真で、なんだかんだとても強い人物だと思うが、ロミオには「許せ」と言えても、ベンヴォーリオは言えないのだ。それはベンヴォーリオが優しすぎるがゆえで、憎しみで癒えるものがあるなら、それがたとえ仮初のものであっても、力を借りるな、とは言えない。優しいが故に弱く、でもとても人間らしい人だと思う。ロミオは現状を打破することができるが、それは彼が優しさを超えて純粋で、まっとうなことをはっきりと言える、強靭な精神を持つ人物だから。でもみんなはそうではない、それに傷つく人だっている。ベンヴォーリオは自分たちが無力であることを知っている、と以前書いたけれど、彼は彼の優しさ故にやるべきこと、本当の理想、全部わかっていながら、それを選択せずにいる人だ。

彼の勇気は、ロミオにジュリエットの死を知らせるところで現れる。ロミオが傷つくことを知っていても、彼はもはや「伝えるべきか否か」を自分が判断する立場にはいないとわかっていて、だからこそ、彼は即座にロミオに伝えた。ロミオがそれで絶望すると知っていても、ベンヴォーリオには何もできないし、「伝えない」ということもできない。ロミオがジュリエットを愛している、というそれだけを知っている友として、選択できるのは「伝える」一択だった。彼は優しくあろうとしても、もはやそれ以外に何も選べず、自らの心の繊細さをある意味では殺して、友達のためにマントヴァまで向かったのだ。
(このときの表情の変化もとても良くて、彼は優しさをある意味ではやめて、でもその選択がどうしようもなく優しいんだ、と感じる。私は、ベンヴォーリオに本当に弱い。瀬央さんのベンヴォーリオについても以前書いて、こちらのロミオと同化していくベンヴォーリオのこともずっと心配だった。この人物が心底、心底好きなのだと思う。ベンヴォーリオはロミオのようなヒーローじゃないが、でもこの世界がよく見えてしまって、気持ちがわかってしまって、だから一つ一つの間違いもわかるし、正しさもわかる、そしてそれらに簡単に従えない、生々しい人生を生きている人だ。)

ベンヴォーリオは、悪辣な対立関係にそのまま身を任せることもあるし、ティボルトを煽ることもある。争うな、なんて言ってられない状況にいて、人に暴力をふるうし、仮面舞踏会でもひと暴れする。でも彼は一方で優しくて、ここを「両面を持つ人だ」と言ってしまうのは違う気がしている。物語においては、「憎しみの中の青年」「リーダー」「ロミオとマーキューシオの友達」という枠組みがあるから、彼の態度はそれだけで説明がつくのだけれど、両面的なのではなくて、多分だが全て繋がっている。彼は優しいから暴力を振るうし、優しいから対立の最前線にいる。そしてその一見矛盾するような彼の態度は、彼ではなく世界の矛盾によるもので、彼は本当に繊細な淡い感性でもってそれと向き合っているだけなのだとわかる。それは、綺城さんの歌を聴いたとき、語られるよりもはっきりとそのことが伝わって、私はめちゃくちゃ動揺してしまった。一人の人間が自分に降りてきたみたいだった。

彼が、「憎しみをやめなさい」と諭されて、「そんなこと言われても」という顔をするのは、今更すぎる問題だからだ。もう止まれない状況にある、止まるなら何か犠牲が必要で、それを踏まえずに語る言葉には、彼は困惑するしかない。でもロミオの言葉は、ベンヴォーリオにとってどうだったんだろう。ジュリエットへの愛情を持ち、「誰もが自由だ」と叫び、苛立つティボルトの前に飛び出してきたロミオは。ロミオがただ純真で、争いに関わって来なかったからこその平和主義者であった頃と、大きく変わっていることにベンヴォーリオは途中、気づいたのではないかと思う。引き裂かれるかもしれない愛情を、手放さないと言い、自分たちに何を言われても諦めようとしなかったロミオは、愛があれば平和になると思っている点はとても甘いが、でも、どうなろうが、平和なんて叶わなかったとしても、仲間に否定されても、愛を手放さないという決意も併せ持っていて、彼はその点では全く甘くなかった。争いの実態に対する認識は甘くても、愛というものへの献身、覚悟は微塵も甘くなく、彼は争う場に身を置かなかったかわり、人を愛することで、幼稚な理想論から脱却したのだ。言うことは変わらない、これまでと変わらない、みんな自由だというロミオの言葉。でも、それを今ではロミオ自身が誰よりも証明しているのだ。彼の言葉にだから、ベンヴォーリオは反応をした。

ぼくたちの王はぼくたちだ、と言っていたロミオとは全く異なった姿だと思う。生まれたその時から自分たちは自由だというのは、本当は嘘でもなんでもないのだけれど、世界がそれを許さず、残酷にもそれらは彼らの人生に絡みついていて、これは、そのことにまだ気づけていなかった時期の言葉だ。ジュリエットに出会って、ロミオは本当の意味で、自由を手に入れた。それは自己ではなく愛を王と据えることかもしれない。世界がどれほど理不尽でも、何もかもを失い、破滅の道になるとしても貫きたい愛を持つ時、彼は本当の意味で「世界に支配されない」。世界の理不尽と関係なく、彼は貫きたいものを貫く人生を得たから。彼の王は愛だった。そしてそれは、ジュリエットが死んだと言う知らせを聞いたベンヴォーリオの「どうやって伝えよう」につながっていく。

昨日までの俺たちは
世界を治める王だった
今日の俺たちは
誰も生き返らせることはできない
誰一人ジュリエットさえも

愛する人を失う痛みを友として分かち合うのと同時に、ベンヴォーリオは、ロミオが自由を失うことも察していた、と私は思う。それぞれのベンヴォーリオの演じ方は、彼の価値観が大きく変わって見えて面白いのだけれど、綺城さんのベンヴォーリオはロミオにジュリエットの死を伝え、立ち去る時、ロミオの悲しみや絶望以上に、彼の先行きのなさ、自由の喪失を感じて、でも何もできない自分を堪えるように立ち去ったように見えた。ジュリエットを失う苦しみを自分は支えてやれない、ということでなくて、誰もが自由で憎しみから解放されて生きていけると言っていたロミオが、世界の理不尽さに捕まってしまったこと、そこから解放してやることができない、彼が自由を託していた愛は、ジュリエットの死によって破綻してしまったのだから。その、無力感と悲しみ。それでも不自由だった世界で、生きて、必死にロミオとマーキューシオの不在の中、仲間たちを止めようとしたベンヴォーリオは、ロミオが生きていけると思った。苦しくて、無力感に襲われることはあっても、それでも、生きていけると思っていた。彼もその日、まさにそうだったから。

綺城さんのベンヴォーリオの「狂気の沙汰」すごすぎて、あんなに透明感があって、ノイズがなく、澄んでいるままで、人の狂気そのものに向き合い続ける人間の、生臭い悲しみが歌われているの、とんでもなく素晴らしくていまだ頭から離れないし、正直1000回聴いても足りないぐらいよ。めちゃくちゃ怖い状況の歌なのだけれど、だからこそベンヴォーリオの感受性がめちゃくちゃ出ていて、彼という人がこんなに浮かび上がってくる歌い方があるんだな、と思う。残酷だったり狂気的な場に、感受性が豊かな人が立つことの恐ろしさが歌声になっている。ベンヴォーリオはヴェローナを見捨てることはできないし、復讐をもはや選択することもできないし、マーキューシオが死んで、ロミオが人を殺してしまって、悲しみは誰よりも深いはずだが、その悲しみを犠牲にしてでも、「待つんだ」と言う彼は、あまりにも不自由で、けれど、友を失った今になっては、犠牲も自らの心ぐらいしかなく、彼はせめてもの理想を語る。「マーキューシオの喪が明けるまで待つんだ」。けれど、自らの心を犠牲にすることなどほとんどの人はできない。止まらない復讐について「狂っている」と歌うが、ベンヴォーリオが悲しいのは、それでも彼らを見捨てられないということだ。見下すわけでもあきれるわけでも困惑するわけでもない「狂っている」が本当にすごくて、ここだけでベンヴォーリオへの感情が1000倍になってしまった。もう私は、綺城さんの歌のファンです。ミュージカルの素晴らしさをあらためて教えられたような気持ちになっています。いやこのシーンと、そのあとの「どうやって伝えよう」はすごい……すごいって……。歌であることの意味がこんなに響いてくるものないよ。ベンヴォーリオが好きなのもあるけれど、彼の複雑にも見える心理が、歌ひとつで全部自分の体に共鳴するようにやってくるんだもの。ベンヴォーリオは歌でないと描けない人物なんだろうな、と強く思いました。

大人たちによって憎しみは植え付けられたと作中では何度も語られるが、一方でロミオとジュリエットの愛を支えた大人たちもいて、そしてその支えた大人たちこそが、この物語の結末に身を引き裂かれるようなショックを受けたに違いない。二人を結びつけるのではなく引き裂いていれば、こうはならなかったのではないか。死んで、二人の愛はあの世で結実した、と語ることは、生者がやればそれは傲慢で、もちろん「結実」に間違いはないのだけれど、そう思うことは決してできない側に彼らはいる。そしてこの大人たち、神父や乳母もそうだけれど、ベンヴォーリオ、そして死んでしまったがマーキューシオもその一人であっただろうと思うのだ。二人は子供だけど、環境や現実をある程度は受け入れ、直視していた点では大人で。幸せにはなれない、諦めろと言った二人は、それでもロミオの幸せのために告げていただけで、彼にジュリエットがふさわしくないとか、両家は結ばれるべきではないとか、そういう価値観があるわけではないのだ。だから、ロミオが幸せならよく、ロミオはジュリエットを愛することが幸福で、彼らは本質的にはその愛を認めていた。特にベンヴォーリオは、マーキューシオの「愛を貫け」という言葉を知っているし、ジュリエットの死を、ロミオの愛を知っているからこそ伝えた人物だ。自分が伝えたからこうなったのだ、という悲しみももちろんあるだろうけれど、彼は二人をもっと残酷に早い段階で引き裂くべきだったのではないか、という後悔や、それでも愛を貫いてほしいと願ったマーキューシオの言葉を否定したくはないという願いや、自らもまたロミオに自由と幸福を得てほしかったという悲しみがあったはずだ。彼らの愛に最初から否定的で、残酷であった人たちほど、死によって愛は結実した、というが、愛そのものを信じて、彼らを支えた人間にとっては、愛が死を呼び寄せたのだ。愛をささえたからこそ、結実したなどと思うことはできず、だから、ベンヴォーリオは最後、人々と歌った後、肩を落とし、大公に支えられて霊廟を去る。愛が結実したとはいえ、二人は死んだのだ、死には変わりないのだという事実を彼は背負ってしまった。

それでもベンヴォーリオは生きるだろうと思う。彼は弱くて生々しくて人間らしい人物だけれど、自らが見たこと感じ取ったことにどこまでも誠実で、彼はだから友達に優しく、友達を支え続けていた。その真っ直ぐに世界を見据えてきた感性は多分、揺らぐことがなく、それで傷ついても、彼は友の墓に花を供えるために朝、目を覚ますだろうし、生まれ変わった街で、自らを心配する人が多い街で、悲しいけれど彼は自分を粗末に扱うことはできないと思う。それは、心配をする人々のために。最初、彼の優しさと、他者の痛みを察してしまうその感性によって、彼は生きるしかなくなるだろうし、そうして日々を過ごしていく中で、彼はこれからの自分の人生を見つけていくのだと思う。それは、ロミオのためにジュリエットの死を伝えたベンヴォーリオだから。彼は、ロミオは生きていけると思っていたのだ、どれほど苦しくても。彼は多分苦しみを理由にして命を捨てたりはしない。そうしてそんなベンヴォーリオが、ヴェローナでいつか幸せを得ていたらいいなと思う。



綺城さんのことをずっと書きたかったのですが、いろんなことを考えてしまって、なによりベンヴォーリオのその後のことを思いすぎて、この記事は最後になりました。ベンヴォーリオのことが私はとても好きです。ちゃんと書き切ることができてよかった。たくさんこれまで記事を書いてしまったので以下にまとめます。(最後と言いながらまた追加したらどうしよう。怖いですね)

これまでに書いた星組『ロミオとジュリエット』についての記事
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