星組ロミジュリB日程/瀬央ゆりあさんのティボルトと、天華えまさんのマーキューシオについて。

「お前はなんでそんなに不器用なんだ。」
これを、ティボルトに言ってくれる人がいればよかったのにと思う。

天華えまさんのマーキューシオ、全ての表情と態度が今際の際のこの言葉ですべてひっくり返っていくようにできていて、すごいな。一番何にも考えてなさそうで、全部自分の中で決着をつけてしまっている青年、と感じる。だから決着をまだつけていないロミオやティボルトには思うところがあるだろうし、ロミオには友としての心配、ティボルトには敵としての嘲りを向ける。そういうところを劇中でクライマックスのところで一気に爆発させるように見せてしまうのが、役がその役として最大限に華やかになっていて素晴らしかった。

ロミオが結婚をしたと知って、自分たちに何も言わないロミオに一瞬だけ不安そうな顔をした。戸惑いや困惑をする他者を振り解きながらも、自らもまた「なぜ」と問いかける、マーキューシオは、他の仲間たちの「ロミオはどうしてジュリエットなんかと?」という疑問を本当は持っていなくて、彼にジュリエットは相応しくないとか、対立する家の娘だから下に見ているとか、そういうことは思っておらず、ただ未来に引き裂かれるしかない女性を好きになるロミオを心配している。だから、他の仲間達の戸惑いなんて、彼は聞きたくないもので(それはロミオが愛した女性を侮辱する言葉だから)、でも発する言葉は彼らと同じになってしまう。そして、ロミオにはマーキューシオの真意は届かない。それこそ死の間際に、マーキューシオははじめて素直にロミオの恋を応援したようにも見えるのだ。

マーキューシオはベンヴォーリオとともに、ロミオとジュリエットの結婚を知って困惑する若者達のところにやってきた時から、その仲間達に辟易しているような表情を一瞬見せて、でもそれはすぐに消える、現れたロミオが何も言わないことに、一瞬だけ弱った顔を見せ、それもまた、すぐに消えた。マーキューシオは幼いような態度をとるし、実際幼いのだろうけれど、ロミオやティボルトよりも、すでに諦めているものがたくさんあるだろう。憎しみや怒りが、大人たちが自分たちに植え付けたもので、それらに振り回されていることだってよくわかっているけれど、それでもそんなことは、多かれ少なかれどこの地にもあって、大人は欺瞞に満ちた生き物だし、それに従っていた方が、ある程度は誤魔化しながらやっていける。それはティボルトからすれば「ピエロ」で、でもそう言うティボルトが、マーキューシオにとっては、純真さに対する未練がましさの塊に見える。

瀬央ゆりあさんのティボルトと、天華さんのマーキューシオは、並ぶこと、対立することで引き立つものがとても多くて素敵だった。二人が対立すればするほど、マーキューシオのロミオに対する認識が浮き彫りになっていく。歯痒いこと無数にあったのだろうな、と思うし、でもそれをロミオの良さだと思って、自分のことは割り切りながらもロミオのことは否定せず、支えてきたのだろうな。ロミオの純真さに惹かれて、友達をやっていると言うより、ロミオと友達だからこそ、ロミオの純真さを守ろうと思っている。純真な人間だから価値があるわけではない、友達から大切なのだ。彼には自分は純真でない、という悲哀はほとんどないし、そういうものに自分のような人間が執着するとしたら、たぶん軽蔑もする。そしてだからティボルトを、心底嫌悪するのだろう。

器用さと不器用さでいうと、マーキューシオには「器用」の悲しみがあって、ティボルトには「不器用」の悲しみがある。瀬央さんのティボルトは、より自分の立場や大人たちによって作られた「ティボルト」を、必死で保ち続ける青年の姿が見えるように作られていて、こんなのは自分じゃないと拒絶する彼はたぶん、「本当の自分」がどんな人間かがわからない。大人に対して、一人の人間として対立するというよりは、子供が何も持てないまま「でもあなたたちは間違っていると思う」とわめくようなことだ。過去の夢ならわかるけれど今の夢はわからない。自分はどうなりたいのか、ジュリエットがどうして好きなのか、わかるはずのそれらがわからず、大人たちが作った「ティボルト」しか手元にないような、そんな不器用さの末路のような苦悩があり、彼はだから幼い頃から惹かれているジュリエットに執着するし、その愛情を絶対に汚さないように生きている。彼には自分の中にある純真さ、幼さが、もうなんなのかわからず、幼い自分の本心が求めているものも見えず、だから手をつけられない、なにもできない、せめて昔から手放さずに持ってきたそれを、壊さないよう、忘れないようにしたくて、ひたすらに現状維持を願う。彼はジュリエットと距離を縮めようとか、そんなふうには思えないのだ。
パリスが現れなくても、いつかジュリエットは結婚するとか、そんなことは考えなかったんだろうか?瀬央さんのティボルトを見ていると、なんだか本当に心の底から、そのあたりのことは考えないようにしていて、ずっとこのまま生きていけるとさえどこかで思っていたのかもしれないな、と感じる。誰よりも子供だと思う、パンフレットで瀬央さんがティボルトを「子供だ」と言っていて、ああ…となってしまった。彼の幼さや、視界の狭さは、現実逃避というよりはもっと、無意識的なもので、逃避しているという自覚も罪悪感もない。ただジュリエットは永遠に屋敷にいる幼い少女だと思うしか、保てないものがあったのではないか。彼女が大人になるなら、自分のものにしたいとか他人には渡したくないとか、そういう発想をしなくてはならない。たぶん、そういうことを考えることすら嫌だったのだろう。永遠に子供でいたかった、恋を片想いのまま、子供の初恋のままで、ずっと灯していたいというような、そんな感覚でもあったのかもしれない。
いつか必ず破綻する方法を取り続けているところがティボルトの不器用さで、そういうところは諦めて、現実を生きていくマーキューシオと真逆だった。でもティボルトはマーキューシオのような器用さだけは絶対に選択したくなくて、だから彼にとっては、マーキューシオは「ピエロ」なのだ。

ジュリエットの結婚を知ったとき、ティボルトはロミオを殺してジュリエットに告白すると言うが、それでジュリエットがどんな顔をするかとか、もはやジュリエットを「手に入れたいのか」すら、わかっていない。愛月さんのティボルトはむしろそれさえも見える中で、でもやってやる、と言い切るような強烈な愛情の着地点、という感じがした。けれど瀬央さんのティボルトは、どんな顔をするか、見えていない。このティボルトはそもそもジュリエットを手に入れたいわけではなくて、ただずっと遠くて、近いままでいたかった。愛とか恋とかいうよりもっと、信仰にちかく、信仰で済むならそれがきっと1番よかっただろう。ジュリエットが階段を降りてきて、一人の女性としてもしもティボルトに告白したら、それはそれで彼の幻が打ち砕かれることになっていた、そう思わざるを得ない恋の形がある。
遠くて近い、そのままでい続けたい。それが叶わなくなった時点で、彼はもう何も望めないし、きっと、ジュリエットを手に入れたいと今更思うわけでもない。ジュリエットに復讐したいわけでも、ロミオを殺したいわけでもなく、ただ望むことすらなくなってしまった、というそれだけだ。彼のその後の破壊衝動は空虚だし、でもそのことに彼の仲間は気づかない。大人たちが作り上げた憎しみによる「ティボルト」という像もまた、彼の望みとは関係ないところで駆動し続ける破壊であり、奥にあった本心や幼さが消えたところで、他者から見た「ティボルト」は何も変わらないのだ。

彼が「自分は不器用である」と気づいていないのは明らかだった。そして「不器用だな笑」なんて言ってくれるのがたぶん友達という存在なのだ。大人たちに対する苛立ちを捨てられないのに、純真さを貫くこともできない、それを、自分の不器用さゆえではなく、世の中や大人の歪さによるものだと信じている。それはもちろん間違ってはいないのだけれど、彼がもし不器用な自分に気づけていたら、世界の歪さに真正面から向かい続けることはしなくて済んだだろう。歪さに対立し続けるが故に、歪さの渦に飲まれ続けてしまう。たとえ傷だらけになっても、自分の在り方や認識には疑いを持たないから、マーキューシオはずる賢くて情けない人間に見えるし、ロミオは甘やかされた能天気な人間に見える。彼がもし、自分の不器用さに気づけたら。甘えてもよいこと、振り切れない理不尽さには諦めるポーズをとって、流してしまってもよいこと、自分は建前と本心を併せ持って、生きていくようなそんな器用な大人にはなんてなれないこと、それらに気づけたら。人生は大きく変わっただろうと思う。ティボルトには友達がいない。でもティボルトの苦悩は、友達の存在、他者の存在そのものの話だった。彼を取り巻く世界を構成する存在としての、仲間や叔父や叔母はいても、自分の内面に介入し、影響を与える他者は彼にはことごとくいなかったのだ、(書いていてだんだん悲しくなってきました)、マーキューシオのような存在が身内にいればよかったのかもしれないし、ジュリエットに目を見て、ばっさりフラれてしまったらまた違ったのかもしれない。いや、だからこそ、ジュリエットという存在は特別だったのかもしれないな。彼にいつかは深く介入するかもしれない、その権利を持つ唯一の他者として、彼は惹かれていたのかもしれない。それでいて、終わってしまうよりは、現状のままであることも、つまり彼女とは遠い関係のまま変わらずにいることも、同時に願い続けていたんだろう。

瀬央さんのティボルトは、狂うような表情を見せるほどにそれが弱さのようにも見え、でもそれを弱さだと自覚できる場にティボルトはいない、ということが、見ている側としてはとても悲しく、それなのに、それを誰よりも指摘できるマーキューシオは、彼と敵対するためにそこにいる。マーキューシオがティボルトに殺されること、それによってティボルトがロミオに殺されることは、この三人が演じると、変わることが絶対に許されず、自らも望んでいなかったティボルトの唯一の幸福な結末であるようにも見える。本当は既に全ては変わってしまっているが、変わっていないと信じていたいティボルトは、自らのそうした弱さを指摘するマーキューシオを黙らせるしかないし、そしてマーキューシオを殺した以上、そのまま生きながらえても、自分を否応なく変えてしまうであろうジュリエットに、はっきりと(ロミオの親友を殺した男として)否定されることは目に見えていて、だから、あの時点でもう、ティボルトは今後生きていく術を持っていなかった。そしてそれを、ロミオが実際に終わらせたのだ。

私はこのティボルトが好きで、そしてそれは対立する先にマーキューシオがいるからだと思う。マーキューシオの存在はティボルトにとってとても残酷で、それは真反対の存在というだけでなく、マーキューシオは、ティボルトが持ち得なかった「友達」の象徴でもあるからだ。でもそれが残酷なこととして見えて来ず、むしろ、とても自然な、人の生きづらさ、不器用さの表れとして等身大に見えるのが、「悲劇的」でなくとてもよかった。ティボルトは哀れだが、でもこうやって生きる人間は無数にいて、それ自体は不幸ではないのだ。もちろん、暴力に身を任せては破滅の道だけれど……、ティボルトの不幸もまたこの街に生まれたことに過ぎず、彼の性質の問題ではないと私は思う。彼のような人間は無数にいる、しんどさを感じたり、恥ずかしい思いをすることはあっても、ヴェローナでなければこんなことにはならなかったはずだ。

しかし、友達は大事だな……とは思うけれど……。私は友達がいないのでとにかくティボルトをみるといたたまれない気持ちになったし、ティボルトをいじめないで!みたいな謎の親心を持った。なにせマーキューシオは「かっこつけた臆病者」とか、言う。クリティカルすぎる。ティボルトのことあまりにもわかっていすぎだしこれがティボルトに効く煽りだって気付いて言っているのが、ほんと「友達がいる人間はこれだから怖いよ」って感じ。ティボルトはそれに対して「臆病なのはお前だ」って返すんだが、マーキューシオは誰よりも自分が臆病であることは自覚しているし、むしろ開き直っている人間なので、この指摘はあまり効かないし、そのことにティボルトは気づいていない(と、私は思っている)。うっ、思い出すだけで胸が苦しい。ピエロのつもりで生きている人間に「ピエロだ」って言っても勝てないよお、ティボルト〜!こういう対比がわたしはつらかったです。
しかし、マーキューシオだって、諦めたくて諦めているわけではないし、何もかもを捨てているわけでもない。例えば友人のことは心配だし、友人が自分を心配するならそれは受け止めたいと考えていて、むしろそういう部分が彼を支えて、抑えているのだ。だから「お友達のお説教」なんて言われたら、そこほキレてしまうんだと思った。

マーキューシオは自分を憐れむ、ということはしない人間で、ヴェローナという完全に狂った街に生まれて、対立するよう煽られ、育てられて、すでに自分のものとしか思えなくなった憎しみを、今更自分から引き剥がそうなんて高コストなことは試みない。今になって、やめなさいと言われても、それを理由に振るってきた暴力があり、それを理由に親しくなった人間がいて、それらを通じて変わってきた自分、得た自分があるわけで、逆算するように全てをほどき、憎しみを消すことなどできない。それよりはそれらが満ちた街を、うまく泳いで、でも誰の思い通りにもならずに生きていけたらいい。
彼にとってロミオやベンヴォーリオは、そうしたなかでの自由さの象徴だ、それは憎しみがまだ植え付けられていない幼い子供のころから、ずっとともにいて、たとえ「憎しみがなかったとしても」、この関係性はあり続けたと信じられるからだろう。だから彼らが自分と違う価値観を持ったとしても、それを受け入れていける。自分と同じ考え方を持たないとその人を信じられない、というのは、その人と自分の関係の動機に、一つの問題がある場合であり、たとえば憎しみをきっかけに親しくなった人となら、憎しみに対してどのような態度を取るか、によって相手を信じるかは変わってしまう。でもそれらと関係ない中で結んだ仲は、憎しみの中にいたとしても、憎しみが関与できない信頼を積み上げる。ロミオが純真だから特別だったというよりは、ロミオと幼い日々を生きて、同じ憎しみを浴びてきたからこそ特別で、だからその特別なロミオが純真でも、それを彼は否定しないのだ。ロミオがロミオ自身を追い詰めるような選択を取るときは「甘い」と止めるけれど、そうでなければ、守っていこうとする。そうやって、人格とか人間性を超えた、信頼を培ってきた。「幼馴染」という関係性の「絶対」はこうやってできていくんだと思う。別々の人間として完全に尊重することが、あまりにも長く近しいからこそ、できてしまうのだ。

友人の存在。憎しみに対してこうあるべきだ、みたいなことを考えなくて済む、自分と違う考え方を持つ人間を大切に思える、というのは、マーキューシオにとっては「人生を諦める」ところまで行かずに済むブレーキだったに違いない。大人たちの憎しみに飲まれて、多くのことを諦めている彼が、それでも人生をそれなりに楽しみたいと思っていられるのは友達のおかげだ。大人のための兵隊になどならないし、自分の価値観が正義なんかではない、正答なんかではない、それを貫いて生きていたらいつかすべてがくだらなく、何も執着できなくなる。そんなふうには決してなりたくはない。「友の幸福を祈ることができる」、彼はそういう幸福の中にいた。

自分が選んだもので自分を縛ってしまうのは不幸なことだ、何かを貫くことは立派なように語られるが、人は環境や世界と戦い続けられるほど強くはないし、間違うことだってもちろんある、それでもその弱さや失敗に自分の全てを支配されることがないよう、人は他者と語り合うし、他者の存在を大切に思うことで、自分を過去の自分の選択から解放してやることができる。マーキューシオは、ロミオのようにはなれないが、でもロミオの幸福を願うことで、彼は救われている。そしてまた、ベンヴォーリオがマーキューシオの幸福を願うことは、ベンヴォーリオの救いにもなっている。綺城さんのベンヴォーリオは大人びていて、俯瞰しながらも自分にできることが少ないと、何度も思い知っていくような人物だと思う。優しくて、物分かりがいいからこそ傷つくような青年だ。このベンヴォーリオの器用さは、天華さんのマーキューシオの器用さとは違って、「自分のため」ではなく、「友のため」に徹底してあり、でも友のための器用さが、本当に友のためになるのかはわからないまま貫かれている。むしろ何もできないんだ、無力なんだと知ってしまうことの方がこの話の中では多く、それでも友のことを見つめ、器用であり続けようとしていたし、だからこそ自分のために開き直って生きているマーキューシオは、ベンヴォーリオにとってとても楽な存在だったのではと思う。危険に飛び出すときだけは止めるけれど、それ以外は彼の悪事にも笑っていればいいし、背中を押してやればいいぐらいだ。他者を思いやる人間に自分のことを第一に考えろと言っても、難しいどころか苦しめてしまうことは多く、それよりもその人にとって大切な人間が、まっすぐ自分を大事にしていることの方が彼を救ったり、支えたりする。それは他者を思いやる、ということが愛や意識的な優しさである以前に、その人の自意識やアイデンティティに関わる問題だからだろう。ベンヴォーリオもまた、憎しみの中に生きて、憎しみに染まり、ロミオのようにはなれなかった。暴力は渦巻くし、仲間を引き連れて、対立の最前線に立つ。彼もまたいろんなことを諦めて生きていて、だから、ロミオに「その恋は諦めろ」と言うのだ。ベンヴォーリオは、憎しみに飲まれながら生きることを受け入れて、マーキューシオが「でも楽しくは生きたい」と思うように、「でもせめて、仲間に対しては、友達に対しては、憎しみなど関係のない人間として振る舞いたい」と思ったのではないか。彼のあの柔和な態度はそうやって生まれて、だから、ティボルトに対する顔と、ロミオやマーキューシオに対する顔が全く違うまま、両立され続けているのではないかと思う。そしてそうした他者への思いやりは、憎しみの中で生きていくには明らかに邪魔で、それでもそれらを手放さずにいたのは、マーキューシオやロミオのような人間がいたからだ。好きなように生きている(と見える)人間を見るのが、たぶん、ベンヴォーリオにとっては救いだった。だから彼は優しい人間としての自分を保ち続けられたのだろう。優しい人は自らを犠牲にしながら優しくあるのではなくて、むしろ自分を保つために優しくあり続けることがある。そういう人にとってあの結末は、あまりにも地獄だ、とも思っている。ヴェローナが平和になっても、それを覆すことはできない。二人が死ぬことで結ばれても、愛が貫かれても、街が平和になっても、失われた命は戻ってこないことを背負ってしまった人物だった。

長くなってしまった。
ロミオとジュリエットB日程、とてもよかったです。

綺城さんのベンヴォーリオについてはこちらに書いています↓