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「希望」の正体って?

少し昔の話をしたい。

僕たちは、親たちや周りの大人たちから見て、少なくとも「希望」だった。もう少し詳しく書くと、「被災地の、復興の象徴」だった。

象徴という、実感のない、薄気味の悪い、ぬるっとした概念が、いきなり自分たちの身に降り掛かってきた。それも、ある日突然。一体全体、なぜなのか。周りの大人たちの行動が理解できなかった。

11年前。

この町の子どもたちは、そんな環境にあった。

その言葉はそれ以前にも聞いたことがあった。学校の授業。公民の時間。何か少し、遠い存在。自分たちとは違う世界の、向こう側の存在。

紙面で、報道で、そういう括りをされた日々があった。ともかくも、あった。

今思えば、26歳になった自分の解釈でいけば、あの日々、大人たちは地域の後輩、そして人生の後輩たちに対して、いろんな思いを託したかったのだろうと思う。

何も無くなった町から、一縷の願いを託すように。
絶望に打ちひしがれた時代に、真っ直ぐな、曇りの無い存在として。

あれからの日々、そして、今。

自分たちの世代は、彼らの期待に添うことができたのだろうか?

これからの日々。そして、近い未来。

自分たちの世代もなお、後輩たちに対して、自分たちが描けなかった希望や、期待や、思いを背負わせてしまうのだろうか?

背負わせることは簡単だ。言葉で伝えることも簡単だ。が、強いられた期待ほど惨いものはない。根拠のない信念が、揺らいでいる。

“あの日々”から積もっている、心の中のもどかしさが、そこにある気がする。