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「蝦夷と坂上田村麻呂のお話」

田村麻呂は渡来人〜「蝦夷と坂上田村麻呂のお話」

青森市 と東津軽郡を合わせた地域は、
津軽海峡 への出口として昔から重視され

「外浜」 という地名の由来は、
「この世の果て」を 意味する仏教用語からつけられ

当時の都 の人々は、「外浜」を境にして別世界に行 くものと考えていたようです。

むかしむかし、そこにどんな人が住んでいたのでしょうか

いろんな学者さんが研究しててわかってる事ですと
もっとも古くから日本に住んでいる現在の民族は、
縄文人の血を引くアイヌ民族なんだそうです

このアイヌのDNAを調べてみると
確かに縄文人のDNAと非常に近いことがわかったそうで

2008年、国会で「アイヌ民族を日本の先住民族とすることを求める決議」が満場一致で採択されてるそうです。(第一六九回国会、決議第一号)

ところで

現在、科学的根拠に基づいているとされる
日本人のルーツは
知られているだけで
6つの源流が考えられるそうです。

すなわち、純粋な意味で日本人というものは
存在しないことがわかっているんだとか

皆さんもご存知だと思う歴史を
ざっくりとですが辿ってみると

青森の地域には
太古の昔
高度な文明があったことは
三内丸山遺跡により証明されています

そして、日本の国の
わかっているとされる歴史を進めていくと

日本では
弥生時代、クニ(小国)が生まれ
さらにクニとクニが対立し
勝った方が負けた方を従え
より 大きなクニ(大国)に成長してきました

そして中にあった
近畿地方の大国「ヤマト政権」 は
中国大陸や朝鮮半島と交流
進んだ文 化を取り入れ強大な勢力となり
天皇を中心とする政治を構築、そして都を作っていきます

ヤマト王朝を建国後の朝廷は
永遠に一つの系統が続く万世一系とする天皇制を作って
さらに天皇、皇族の系譜をあらわす帳簿である皇統譜をも作成し、
それを『日本書紀』として

それをヤマト王朝の「正史」としました。

いっぽう同時期のほかの地域はどうでしょう
関東・東北地方は「東国」 と呼ばれ

同じように農耕などの生活を営んでいるにもかかわら ず、
中央朝廷の自分 たちより遅れていると考え、
そこに住む人々を差別の意味を 込めて朝廷は「蝦夷(エミシ)」と呼びます。

ここで日本書紀(659)に記された蝦夷の記述をみてみましょう

コレは遣唐使が中国に蝦夷を連れて行った時の記述とされてるものなのですが

天子「蝦夷の国はいずれの方にあるか」
遣唐使「東北にある」

天子「蝦夷は何種類あるか」
遣唐使「三種ある。遠方を都加留(ツガル)、荒蝦夷(アラエミシ)、熟蝦夷(にぎえみし)という。今回伴ってきたのは熟蝦夷・・・」

天子「蝦夷の国には五穀があるか」
遣唐使「五穀は無い。肉を食して生活している」
天子「蝦夷の国に家はあるか」
遣唐使「無い。深山のなかで樹木の本に住んでいる」

コレは秋田のポートセンターのページで紹介されてるものを転載
http://www.forest-akita.jp/data/kiso-bunka/kisobunka03/kiso-03.html

なかにツガルという文字も出てきますが
どうやら、ツガルとアラエミシは追従していないのがわかります

そんな蝦夷を
朝廷の時の帝
桓武天皇は平安京に遷都すると同時に、討伐に乗り出します。

理由は
簡単にはいきませんが
大雑把に言うと
都では土木工事、軍隊の 増強などを行い
さらなる財源の確保が必要になったこと

そして
諸々の史実は省きますが
不幸続きだった桓武天皇が
風水説に従い、祟りを避けるため平安京を建設
鬼門とされる方学の東北に対処、延暦寺の建設
そして先手をうって蝦夷征伐にも乗り出したという見方もあるそうです

古代史は
無数ともいえる伝説・伝承に彩られていて、
複雑でわかりにくくなっていて
整理して系統立てて
書き表すのはとても難しいのですが

何れにせよそんな感じで

時の朝廷は

蝦夷を取 りこみ、税を納めさせようと

ねぶたの起源とも言われる
坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命します

この坂上田村麻呂
よく日本の歴史に登場することも多く
実に馴染みの深い人物ですが

一体どんな人物なんでしょうか


実は田村麻呂
渡来人の末裔とも言われる人物
身長170cmを超え
胸の厚みが36cmという豪傑らしく
近年の研究では
二人目の征夷大将軍ということがわかっているんだそうです

そもそも、日本における〈将軍〉ですが
お気づきでしょうか、〈征夷大将軍〉の略、
これは「東北地方を政略する、軍の大将」という意味でもあるんですね

それだけ朝廷にとって蝦夷征伐は重要な仕事だった事がわかります。

もう一つ
何故渡来人という疑問がありますが
その頃、大和朝廷は日本国統治の為
中国へ使節を派遣し、又、中国から渡来人を招くなどして
中央集権的律令制度を推進、
ちなみになのですが
この時の桓武天皇には27人の皇妃が居て
その中の6人が中国人、そしてそのうちの1人が
田村麻呂の娘だったそうです。(学習院教授、鐘江宏之、論文、律令国家と万葉人ヨリ)

脱線しましたが
さて坂上田村麻呂は蝦夷において輝かしい戦績をおさめて

その結果
朝廷を手こずらせてきた蝦夷のリーダー・アテルイとモレは降伏をします。

坂上田村麻呂はこの降伏を受け入れて、京都まで護送しています。

にもかかわらず、朝廷はこの降伏を認めず

蝦夷の二人を処刑します。

後々、蝦夷と朝廷は何度かこういった経緯もあり諍いを繰り返すわけですが

坂上田村麻呂はその後蝦夷征伐には向かいませんでした。

そして蝦夷の二人対してでしょうか
定かではありませんが
坂上田村麻呂は京都の清水寺や富士山本宮浅間大社を創建したといわれています。

1994年清水寺に蝦夷のアテルイとモレを讃える石碑が建てられています。

その後の、蝦夷に関しては機会をみて投稿出来ればと思います。

写真提供元
https://xn----kx8a55x5zdu8l3qh8ld.jinja-tera-gosyuin-meguri.com/wp-content/uploads/2017/08/清水寺アテルイ%E3%80%80モレの石碑.jpg

http://www.jinken.ne.jp/be/meet/okiura/
東北不屈の歴史をひもとく
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/asin/4062173883/tavel-22/
https://bushoojapan.com/tomorrow/2013/11/04/8942

一説によると

平安時代というのは
実に温暖な気候の変化があった事がわかってますが

気候が温暖化すれば、当然に農業生産力も向上
さらなる耕作地を求め、北上しようとしたとも

またまた、他の説によると隣国である
新羅が崩壊して、その国から移り住んだ人々が
東北地方などにやってきたとも言われ
それに対処したという
学説もあるんだとか

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