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〜文豪・太宰治のお兄さんは青森県知事〜

「青森県知事の話」

今年知事選挙があるので
最近話題になる事も多い青森県知事
青森県の知事は現在、三村申吾知事です。
皆さんもご存知、選挙で選ばれた公選知事ですが

選挙で選ばれるようになってから
第20代目の知事にあたりますが

以前は知事は選挙ではなく
中央の官僚が知事に任命されていました

ちなみに
選挙で最初に選ばれた最初の県知事は
広く知られていると思いますが
金木出身の津島文治知事

津島文治知事は
言わずとも知れた日本の文豪の太宰治のお兄さん

1947年に青森県知事に就任
以後、3期(9年余)を務めています。

観光地として有名な十和田湖湖畔の「乙女の像」は、
津島が高村光太郎に依頼して制作されたものでした。
蛇足ですが弟・修治(太宰治)が自殺したのは1948年の事

話を知事の話に戻しますが
公選知事になる前

明治の終わり 頃までは、
府知事・県令の多くは
藩閥(薩摩・長州)出身者で占められていたそうです。

青森県が誕生し青森県庁が開庁して
青森県の知事として当時は権令(ごんれい:県知事にあたる役職)が来青しますが

青森県の一番最初の県令は
青森市を県庁所在地に決めた熊本出身の野田裕通(のだひろみち)でした。

次いで
菱田権令(県令と同意)

青森県にやってきた菱田権令は当時37歳
彼は血気さかんで青森県の見るもの聞くものが全て
青森はかなり遅れていると思ったようです。

その結果、県民を愚民、土民と述べ
ねぶたも野蛮な風習で卑しむべきとして禁止した他

寝床にオマルを置くのは不潔だとか
浴場で頭から湯を浴びること
男女共に大通りで立ちながら尿をしていたりなど
食事の箸の持ち方から上げ下ろしまで
ほんの些細なことまで禁止の告示したらしいですが
青森県民、住民はよそ者の知事の言うことはなかなか聞かなかったようです。

その結果、菱田権令は旧藩士族の給禄問題で失敗、免官

その後も中央からやってきた県令は
どなたも旧弘前藩の士族の対立や
本県の厳しい気候で身体を壊すなどでいずれも在任期間は短く

中央政府は青森県は統治が難しい難治県として異名をとったたようです。

青森県民は頑固で中央からやってきた官僚知事を困らせてたんですね。

追記
文中に津島文治知事について触れましたが
津島文治知事は
自殺した弟さんの太宰治のことは生前余り口にしていません

取材の申し込みがあっても全てノーコメントだったらしいです。

参考資料/青森の歴史


街グルメ青森
記事編集/鈴木勇(グローバルキッチンサイゴン所属)0

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