名前がある5
細岡が家に帰ると、珍しく女が出迎えをするように近づいてきた。女は何かを握っていて、それを細岡に渡そうとする。
嫌な予感、嫌な想像が一瞬にして加速した。
紙切れだ。金というどうしようもない紙切れだ。くしゃくしゃの紙切れを2枚、女は細岡に差し出した。
いつもと違う髪の匂いがした時、加速した想像が現実にぴたりと一致した。女は少し笑っていたが、細岡には不気味なくらい影しか映っていなかった。
二人はその場で獣になった。男も女も鳴いた。掻き消したい匂いに襲われる度、男は自分も女も激しく傷つけるように、優しく抱きしめた。
紙切れには、女の香水の匂いが染みついていた。
「何が食べたい?」
「ハンバーグ」
「ファミレス行こうか」
「じゃあスパゲティも食べたい」
「あ、今の左に曲がれば良かった」
「これ、なんて歌?」
「有名じゃない歌」
「この歌好きなの?」
「普通」
「いつも聴いてる」
「これしかないから」
「いつも歌ってる」
「そんなことない」
「私、この歌好きになった」
「あっそう」
「裏声が綺麗に出てる時、細岡君は調子がいいんだよ」
「…そんなことない」
生活に色が付き始める。季節が巡るように、それは誰にも止められなかった。二人が手を繋ぐと色が生まれて風が吹いた。
部屋では1日に2回、ドライヤーの音が響くようになった。
女は話すようになった。
細岡は聞くようになった。
余計なことが、もう余計なことではなくなっていた。それだけの時間が流れていた。二人にはもう、それがとても大切な話になっていた。
女は18歳だった。細岡よりも5歳下だった。家庭内暴力に耐えきれずに家出し、知らない男に何度も拾われては捨てられ、あるいは自分から逃げ出していた。ずいぶん離れた遠い街からここまで来ていた。
「今更、優しい言葉をかけることなんてできないな…どうすればいいのかわからない」
「キスして。今までみたいにずっと私を飼ってほしい」
女は全てを話したが、名前を言わなかった。名前が嫌いだと話した。
「細岡君に呼ばれたら、好きになるかな」
「いいよ、無理しなくて」
あの時、最初に見てしまった少女の眼の訳は、やはり自分と同じだった。細岡が育った家庭環境はもっと最悪だった。
だからあの日、痛いくらいに反応した。
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