名前がある6

同じ時間がずっと流れていた。

毎日同じように向かい合って食事をして、時々並んで食べたりもして、

部屋で動画を観て、たまにドライブをした。

二人の平凡は、それまでの退屈を越えて辿り着いた。やっと手にした退屈だった。

ナッツを噛む音で互いの存在を知らせる。二人にはその時間が最高に幸せだった。何もいらなかった。


「私のシャツ、細岡君と同じ匂いがして嬉しい。ずっと抱きしめてもらっているみたい」

女はよく話すように、笑うようになった。洗濯機の回し方を聞いてきたり、食器を洗うようにもなった。

女は電子レンジで温めた白ご飯を塩をかけたラップにのせて、おにぎりを作った。人生で初めて作った料理だと、笑顔で話した。

細岡は、そんな変化がずっと怖かった。
名前を呼ぶ勇気がなかった。





買い物をした。誰かのため、自分が好きな人のために買い物をした。幸せなんて言葉が怖いことも忘れて、手が届く未来を組み立てながら歩いていた。


道に野菜が散らばり、豆腐が潰れた。

「昔家に泊めてやったろ!金払え!」

バイクに乗った男はそう言うと女のバッグを無理矢理奪おうとした。細岡に買ってもらったバッグを女は離さなかった。必死になって握りしめた。




「バッグなんか捨てちまえばよかったのに…」

そのまま命を道に落とした女に会うこともできず、警察官の前で細岡は呟いた。

女を殺した男にも、女の親にも、死んだ女にも細岡は会うことはできなかった。

自分には全てが無関係だった。

細岡は名前を一度も呼べなかった。

あの女は、愛する人に名前を呼ばれることもなく死んでいった。

細岡は、いつのまにか二人の部屋になった部屋に、一人で帰った。

匂いが、脱ぎ捨てられた靴下が、歯ブラシが。
食べ残したナッツが、紅茶が。

まだ部屋にはあちこちに女がいる。

細岡は名前を一度だけ呼んだ。その後に自分が壊れることはわかっていた。それでも、一度だけ名前を呼んだ。

この世には現実しかなかった。

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