名前がある4
家の近くのコンビニの駐車場で細岡はあの時の女を見かけた。いつ以来なのか、そんなことは細岡にはもうどうでもよかった。
女はあの時と全く同じ服装だったが、白いニット帽をかぶっていた。
「鍵返せよ」
女はポストに鍵を入れていなかった。近づいた細岡がそう言うと、女は握っていた左手をゆっくりと開いて見せた。ずっと鍵を握りしめていたのか、鍵は生温かくて湿っていた。
「家がわからなくなった」
小声で女が言った。細岡は返事をしなかった。ただ、握りしめていた生温かい鍵がいろんなことを伝えてくる。
細岡は何も言わず車に乗って帰ろうとした。女は細岡を見ることもなく、下を向いて立っていた。そんな姿を細岡は見てしまった。
車の中から見える景色がよっぽど珍しいのか、女はまるで子供のように助手席側の窓の外に釘付けになっていた。細岡はそんな女の背中を時々見た。
少し遠回りをして家に帰った。それは窓の景色を女に楽しませたのではない。また連れて帰って来ることに少し悩んだ。またいなくなることがわかっていたから。
暗闇の中、車の鍵が閉まった音が響く。部屋の窓の灯りを細岡が見ていると、女も同じように顔を見上げた。
仕事から帰ると細岡は車の鍵を手に取る。鍵とキーホルダーが擦れる音がすると、じっと座っていた女は反応して細岡に近づく。二人は何も言わなかった。女には表情がなかった。
それでも女は少し嬉しそうだった。
鍵の音を立てることが二人の合図になった。それから毎晩のように二人はドライブをするようになる。
特別なことはしなかった。ドラッグストアで女に歯ブラシを買ったり、川の近くの公園で鳩にパンをちぎってあたえたりした。外食はほとんどしなかったが、車の中で細岡はコンビニのおにぎりのフィルムを剥がしてから女に渡した。
それが女にとってどれだけのぬくもりとなる優しさなのか。細岡は何も知らなかった。
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