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茶は万人のものである

茶は一つのたしなみに終わるものではない

茶碗から茶をいただくということは、ものがそこにあるという 人がここに居るという 問いかけが生まれる出来事そのものである

茶は 近来の茶道 茶会のようなスタイルから 旧来の禅僧の瞑想の場へと回帰してゆく。

茶室はどこか都の静かな藪のなかにあるのではなく ひとりひとりの場に移動してゆく。しかしそれは 日常の同じ平面にあるのではなく一段ずつ階段を降りてゆくその先の、深い闇のなかにある。茶はそこに映える幻燈である。

茶室の入り口は、人がやっと這っていける程度の極めて小さな穴、できればトンネルをつくり、苦労してそこをすり抜け、小さな空間に到達する。そこは地の底でもあり母体でもある。そこからの帰還は ひとつの再生そのもの。私は青空のもとで 不可解な「ある」という問いかけに 包まれる。

茶が万人のものであるならば 茶碗も万人のものである。だから 茶碗をそれぞれの場で生む工人には 必ず未来がある。


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