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聖書やお経について学べば、キリスト教や仏教を理解したことになるか他

僕は、旧約聖書と新約聖書全部を4-5年掛けて音読しました。平家物語もしました。

日本書紀や萬葉集は音読はしませんでしたが、一応、全部読みました。史記とか老子・莊子のような漢籍も読んでいます。

数年前から仏教の勉強をしてみようと思い、仏典も読むようにしています。

ただ、ここで問題なのは、仏典(お経)を読んだら、仏教を理解したことになるのかと言う事です。

いや、読んだだけじゃダメだ、ちゃんと理解しないと・・・?

ですって・・・

まぁ、一生懸命勉強してお経を「ちゃんと理解」できるようになったとしましょう。

そうしたら、仏教について、理解した事になるのでしょうか?

実は、現代の日本人が仏教でもキリスト教でもいいですが、そうした宗教を「理解」しようと努力する場合の、かなり難しい問題が、この「お経をちゃん理解する件」には含まれているのです。

それは、現代日本人にとっての宗教の「標準」が、私達はふだん気づかないでしている事ですが、「宗教改革以後のキリスト教」になってしまっているからです。

溝田悟士さんの「福音書の解読」と言う本に「主は最初ケパに現れ、次に他の弟子たちに現れ」と言う新約聖書の一文が、どうやら最初期のキリスト教会の伝承だったと言う話が出てきます。

つまり、「聖書がない時代」にもキリスト教は存在したと言うか、お経にしても聖書にしても「後から造られたもの」で、お経がない時代の仏教、聖書がない時代のキリスト教もあるわけです。

「ルターの首引き猫(森田 安一)」にはルターの著作がルネッサンスの人文主義者たちに歓迎されたと言う話が出てきます。

ギリシャ・ローマを「古典古代」と言って称え、その古典を読んで「文芸復興」しようとしたのがルネッサンスの人文主義者達です。

つまり、古典を読めばギリシャ・ローマの事が分かるはずだ、聖書を読めばキリスト教の事が分かるはずだ的な「原典主義」は、ルネッサンス・宗教改革期の思潮の影響を受けているのです。

そして、戦国時代に日本にやってきた吉利支丹は、このルネッサンス・宗教改革以降、「対抗宗教改革」と言うカトリック教会内の「近代化」以後のものです。

江戸幕府は吉利支丹を禁制にしますが、とにかく、吉利支丹・・・近代化されたキリスト教を意識せざる得なかったわけです。

国学者の本居宣長や平田篤胤は蘭学塾で学んでおり、「プロテスタント」的な発想に接していると思います。

賀茂真淵は萬葉集を研究しますが、どうやら新井白石のお母さんが萬葉集に親しんでおり、新井白石自身はその影響で萬葉集を重視するようになった事が江戸時代の萬葉集研究の背景の一つにあるようです。

その新井白石は、吉利支丹宣教師を尋問したり、日本に来ていた新教側のイギリス・オランダの言い分を聞いたりしています。新井白石は、新教国が旧教国ポルトガル・スペインを悪く言うのは、ヨーロッパで両者が覇権争いをしているせいだ・・・と、両者の言い分を聞いて思ったとのことですが、とにかく、「近代化されたキリスト教」に接している、

そして、その「近代化されたキリスト教」の中にある古典を学べばギリシャ・ローマが分かる、聖書を学べばキリスト教が分かる式の発想の影響も受けてしまっていると思います。

そこで、萬葉集とか古事記とかを学べば日本の事が分かるんじゃないかと言うような国学的発想につながっていったと思います。

そして、禁制にしたにせよ、「近代化されたキリスト教」を意識せざる得なかった時代以降、日本人は宗教の標準を「近代化されたキリスト教」においてしまい、それとの比較で、日本の独自性を主張する場合でも、西洋はこうだけど、日本はこうだ・・・と言う言い方をするようになってしまっている事が多いと思うわけです。

では、近代化されたキリスト教に接する以前に、日本人が「古典」を読んで過去を理解する事をしようとしていなかったのかと言うと、実はあります。
(あるからややこしいのです。)

例えば、南北朝時代の北畠親房の「神皇正統記」は、日本書紀のような「国書」と仏典・漢籍・・・つまり、仏教や中国の古典を比較して書かれています。

また、平安時代の弘仁私記は当時行われていた日本書紀研究会についてのメモですが、「古事記はいかに読まれてきたか(斎藤英喜)」によると、日本書紀より古い古事記を読めば、日本書紀の解釈ができるのではないかと言う発想が、この中にあるのだそうです。

つまり、日本には日本で、古典を読んで過去を理解しようとする発想はあったんですが、それと古典を読めば昔の事が分かるはずだと言うルネッサンス・近代化されたキリスト教式の発想が江戸時代以降、「シンクロ」してきたように思います。

現代の私達は、この「シンクロ」発想の影響を受けてしまっているので、聖書を読んでキリスト教を理解しようとするとかお経を読んで仏教を理解しようとすると、どこからどこまでが、吉利支丹との接触以前の日本独自の「古典を読む思想」のもので、どこからどこまでが吉利支丹との接触以降、「近代化されたキリスト教」を意識して生まれてきた思想によっているのか、

分からないと思います。

だから、聖書とかお経を一生懸命読み、ちゃんと理解できるように一生懸命勉強すると言う行為自体が、けっこう「ややこしい」問題を孕んでいる、

聖書を読めばキリスト教が理解できたことになるのか、お経を読めば仏教が理解できたことになるのか?

もしかすると違うんじゃないかみたいなことを頭の片隅において、勉強しないといけない・・・

と言っても既に聖書やお経は存在しているし、現実にキリスト教や仏教について解説している本も聖書やお経を引用しているわけで、

聖書やお経を読んでキリスト教や仏教を理解しようとする発想抜きに、キリスト教や仏教を勉強すること自体、不可能なのが「現代」なのです。

とりあえず、聖書と仏典を読み比べて、キリスト教と仏教の比較をしていこうと思っているのですが、

そう言う風に聖書や仏典(お経)を読めばキリスト教や仏教が理解できたことになると言う発想自体が、「違う」かもしれないと言うことも頭の片隅において進めたいと思います。

2週間予報は晴れれば最高気温36℃-37℃、日によっては平年値より7℃も高い状態、雨が降る日は30℃-33℃と平年値並みに近づくとしています。

このまま、8月になって、平年値より7℃高い状態が維持されるとすると非常に恐ろしい気温になるとように思います。

そうはならないかもしれませんが、その代わり、また集中豪雨が起きるかもしれません。どっちにしても恐ろしいです。

五枚目の数字づくり、本日のお題は、「
2」、「1」、「8」、「3」を使って、「6」を造るです。

頭の中で考えていないで、実際にポーカーチップを積んだり、並べたりしてやってみましょう。

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