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それはまるでひと夏の恋のような

「くしゃみ」は人体の構造上、防ぐことが不可能らしい。この間何かのラジオで聞いた。お前なんで急にくしゃみについて語り出した? と思う人もいるだろうが、それは私も同じです。

くしゃみはひと夏の恋のようにいつだって唐突に、電撃的にやってくる。考えてみれば防いだことはない。出るのか出ないのか、もぞもぞする展開を繰り返したのちに結局でないということはあったが(あの感じ気持ち悪いよね)、くしゃみが「来る」と確信をもったときはもう防ぎようがない。思った瞬間にはもうくしゃみをしている。

普通にしていればくしゃみは「くしゅん」や「ハクション」といった擬音(擬音?)を伴って放出されるが、個人差はあるもののそれなりに大きな音を立てるため周囲に人がいる場合は若干の辱めを味わう。もはや陵辱である。それが人体の構造上仕方がないものだと言われても、到底納得できるわけがない。だからこそ人類は考えた。くしゃみボリュームを最小化するために、人類は秘技を編み出した。それが、必殺「鼻つまみ」である。


それを初めて見たのは小学三年の頃だった。同じクラスのまさお君が、鼻をつまんでくしゃみをしていた衝撃は一生忘れることができない。雷に打たれたような衝撃を受け、立ちすくんだ。

な…え…? なんで鼻をつまんで…?

まだこどもだった私は、くしゃみを普通にせずに鼻をつまんでするという発想がなかった。まさお君は通常の「くしゅん」や「ハクション」といったくしゃみではなく、「ンッ」に音を極小化させていた。すごい奴がいると思った。同級生にこんな奴がいるなんて知らなかった。「くしゃみ界の新星」ではないか。そう思った。そして彼はその道の達人の域にレベルを上げていった。もはや鼻をつままずに「ンシュッ」と音を極小化させる技術を身につけていた。彼が実家のアスパラガス農家を継がず、くしゃみの腕を磨き続けていれば、今頃「くしゃみ界の匠」として連日メディアを賑わせていただろう。


僕は一度、彼を真似して「鼻つまみ」をやってみたことがある。抱いた感想としては、「気持ちわるい」だった。放出されることで味わう一種の気持ち良さみたいなものがまったくなかった。生理的行動であるくしゃみを作為的に抑えるのは、音を抑えられる代償として爽快さを失うのかもしれない。僕はそれに耐えられなかった。子どもだった。普通にくしゃみすればいいやん。そう思った。

人間は日々色々なものを放出して生きている。汗、涙、精文字数。それらにはすべて意味があるはずだ。くしゃみだってそう、意味がある。鼻に入った異物を除去するための防御的反応なのだ。意図的に止めようとしてはいけない。鼻をつまんだりして出口を塞ぐと、ものすごい圧が気道にかかって危険なのだ。だから私は普通にくしゃみをする。今日も、明日も。

でもたまに地鳴りのようなくしゃみするおっさんいるじゃないですか。あれには死んでもなりたくない。

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