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「まぁるい日本 国家安全保障(ビジョン2100)」No2~序~


【平成二十三年(二〇一一年)十一月記】


 

冷戦時代、文字通り、冷たい戦争を継続していたから、安全保障は、ソ連との戦争を主題として考えれば良い時代であった。

ソ連をはじめとする共産主義国は、資本主義国を侵略的だと断じ、資本主義国を撲滅して世界革命を達成し、プロレタリアート独裁の平和を実現するのだという教義を掲げていた。

米国をはじめとする自由主義国は、共産主義国をして、世界中に革命を輸出することを使命とし、機会主義的に他国を侵略することを狙っている好戦国だと見なして、ソ連という巨大な脅威の前に一致団結していた。戦争を必要とする危険なイデオロギーを持ったソ連がなくなりさえすれば、平和が来るのだと信じていた。

それぞれの国は、お互いの持つ軍事力について情報収集し、政治的な意図を分析し、脅威を推し量っていた。新しい科学技術をもって新兵器を開発し、予想できない戦術や戦法をもって奇襲されることを恐れていた。



一九九一年(平成三年)、ソ連が崩壊したとき、西側自由主義国の政治家や軍人たちは大きな達成感と満足感を持ち、平和な時代の到来を予感したが、ふと気が付くとその先に言いようのない喪失感と寂寞とした不安が横たわっているように感じられた。

政治家は、何を政治目的に掲げて、国家を維持、運営していこうかと。

軍人は、共産主義国とともに国境がなくなってしまうかのような平和ムードに酔い痴れる人々を前に、どう抗すればよいのか。自分たちの存在価値は、一体どこにあるのだろうかと。

国家が持つ軍事力の普遍的な意義を信じてはいたが、冷戦当時ですら反戦平和を唱える人たちから押し寄せていた津波のような軍事否定、軍隊の存在意義の否定、軍備管理ばかりではなく軍縮を求める声に、ソ連がなくなった今、どうやって立ち向かえばよいのだろうかと。

茫然自失と言っても言い過ぎでない状態に陥っていた。


東アジアには未だ冷戦構造が残っているのだ。あるいはソ連という大きな脅威が喪失したあとに力の真空地帯が生じて、旧ソ連の周辺地域ではかえって不安定な状態になるのだ、という情勢分析がなされた。

妥当な情勢分析ではあったが、世界中で沸き上がった冷戦に勝利した果実を求める声に対しては、何の抵抗にもならなかった。


ソ連との戦いを考えることが国の“戦略”だと考えられていたから、ソ連の脅威への対処を真剣に考えていた人たちほどソ連が崩壊した途端、座標軸がなくなり、針路を見失った。

しかし、国家の安全保障や国家が軍事力を養う意義を考えたとき、ソ連という国は多くの脅威のなかの一つであっただけで、ソ連があったから軍隊が存在したのでもなく、共産主義があったから戦争があったわけでもなかった。


悪の帝国が消え去って、自由と民主主義という輝ける理念が世界中を覆い尽くしたとき、国の(政治)目的をどこに置くのか。軍隊の存在意義をどこに見いだすのか。日本のように軍事的な手段を使わないことを前提としている国が、何を自衛隊に求めれば良いのか、まったく分かっていなかった。

これが冷戦崩壊後の戦略構築の大きなテーマとなった。

このままでは、自衛隊は存在意義を失い、日本の軍事組織が溶解してしまって、国家の背骨をなくしてしまうかもしれない。

そのような危機感が手伝ったからか、驚くべき速さで、カンボジアへのPKO部隊派遣が決められた。



日本の安全保障に対する考え方は、矛盾に満ちていた。

建前では、政治から軍事を排除するように語り、防衛力整備を抑制する一方で、米軍による日本防衛には過度に依存する。

米国が、日本の応分の軍事的役割分担を求めてきたら、それは拒否する。一国主義的な主張をして、諸外国との軍事的協調を考えない。

しかし、冷戦が崩壊すると、在日米軍の撤退を心配し、日米関係の疎遠化、日本の孤立を恐れる。


安全保障理事国入りを外交目標に掲げても、軍事力の行使を拒否して「軍隊は持っていない」と言い、世界の現実に目を背ける国が国連の安全保障理事国になれるわけがない。

戦争は政治の延長であり軍事は政治そのものだ、という世界の常識に逆らって生きていくことはできない。

国際社会の規範と常識にしたがって行動しなければ、名誉ある地位を占めることはできない。

自衛隊は軍隊ではないという人もいるし、現実に軍隊ではないと考えられる側面があるにしても、軍隊であることを目標にしなければ自衛隊の能力と存在意義は失われる。そうなれば日本の国の安全保障は成り立たない。

日本の地政学的条件、世界第二位(当時)の経済大国の地位や日米関係を考えれば、さらに厳しい状況が目の前にある。

日本が非軍事国家を目指しているからといって、冷戦が終結したことを理由に、自衛隊の役割を局限したならば、日本の防衛はどうなってしまうのか。


冷戦が崩壊したのち、世界中の軍隊がそうであったように、陸上自衛隊も冷戦の果実として削減することを“暗に”求められた。陸上自衛隊の削減を求める政治の声は、冷戦当時から根強く継続して存在していた。

非常に厳しい予算状況が続くなか、予算に合わせて「自ら削減することもやむなし」とする声は、陸上自衛隊の中にもあった。

陸上自衛隊は削減を求められると予想していたが、明確に指示されることはなく、あの人が陸上自衛隊は○○万人だと言った、官邸はそのような意向らしい、という声がどこからともなく“噂”のように流れてきた。

宮澤内閣が自衛隊削減を明言したことはなかったように覚えている。

命じることなく陸上自衛隊が自ら削減を言い出さざるを得ないムードを創り出す努力をしているかのように感じられたから、その雰囲気を受けて、“暗に”と表現した。

公式に自衛隊の削減方針が出されたのは、宮澤政権ののち、細川首相が陸上自衛隊中央観閲式の訓辞で述べたのが最初だった。

そして、翌一九九四年(平成六年)二月に、冷戦終結後の日本における安全保障の見直しが提起され、防衛問題懇談会が設置された。



それに先だって、一九九二年(平成四年)、陸上幕僚監部として削減を命じられたときに備えて定員削減の検討をするということが決まり、防衛課防衛班にいた私は主務を命じられた。

まだ陸上幕僚監部のなかでは、検討に着手することにさえも否定的な声が強かった。


安全保障を考える出発点は、政治が、何を国家目的としてとらえ、何を国益としているのか、政治的な目標(戦略目標)を何に置くのかにあるのだが、軍事や安全保障に関して、日本の政治の方向性は、まったく分からなかった。

政治が軍事にどのような役割を期待するのか。

そこから、自分で考えなければならなかった。

時代の流れに逆らって変化することを拒んだならば、自衛隊にとってさらに悲惨な結果しか生まれないことは目に見えている。

自衛隊は、国民意識から離れては生きていけない。

好むと好まざるとに関わらず、自分たちの将来像は自分たちで責任を持って描いておくことが責務である。陸上自衛隊が防衛について、どれだけ真剣に考えているかを示すことが必要なのだと考えた。

「一八万体制の相似縮小形にはするな」という指示はあったものの、その他に細かい指示は一切なかった。

今考えてみると非常に大らかであったが、日本の将来も検討する陸上自衛隊の将来も、誰にも見えていなかった。


そこで、日本の安全保障の在り方が冷戦後の国際情勢のなかでどう変わっていくのかを考察することを陸上自衛隊の将来方向検討の大前提にすることにした。

防衛構想の出発点は、国家目的や国家目標、日本の将来の国の在り方を考えることであった。

私個人の思考範囲としてはそれで良かったのだが、陸上自衛隊が検討する議論の範囲は自ずと決まっている。皆、陸上自衛隊の任務は政治が与えるものだと考えているから、任務の範囲から議論を始めると、議論が拡散してまとまらなくなる。

シビリアンコントロールの問題にもなりかねない。

そこで、日本の安全保障についての議論は避けて、将来の『陸上自衛隊の役割と期待度』がどうなるかというテーマを最初に議論の俎上に挙げることにした。

これを一枚ペーパーにまとめて報告したところから、本格的な検討が開始されたのだが、検討の最も重要な部分は、『陸上自衛隊の役割と期待度』を案出する前段階の、国家目的や国家目標、国益、日本の安全保障政策にあった。

あの一枚ペーパーが検討の方向性、ひょっとすると結論までを決める内容であったのだが、誰にもそれを説明する必要はなかった。

削減した結果だけを求められていたのだから、立場上も、検討の必要性からも、考察の前提を表に出すことを求められることはなかった。

しかし、これらのことを考えていたおかげで、『陸上自衛隊の役割と期待度』について幅広く、深い内容で議論することができたし、検討は最後まで、描いたストーリーにしたがって進んでいった。


現在もそのときの方向性が生きている。

そして、直接仕事の役に立たないようなことを幅広く考えながら構想をまとめたことが、健全な組織を作ることに少しは役に立ったのではないかと思っている。



平成八年から始まった陸上自衛隊の体制変換は、平成二十三年度に一応の完整を見た。

十五年間組織を変え続けると“体制変換疲れ”が起きて、しばらくは組織をいじりたくないという声が出てきている。

これは組織改革に必要な予算が与えられず、必要な手当てが十分にできなかったことに大きな原因がある。

軍事組織は、脅威に応じて柔軟に組織を変えていかなければ、すぐに役に立たない組織になってしまう。

この世に存在するものは、環境条件の変化に呼応するように変え続けなければ、存在意義を失ってしまう。

有効に機能するのは一瞬でしかない。

これは普遍的な真理である。


日本は、防衛計画の大綱という防衛構想を改訂することで、自衛隊を国際情勢の変化の中に投じる決心をした。

〔基盤的防衛力構想は、冷戦時代、ソ連の脅威の増大に対して「我が国の防衛力は、地形区画に応じた必要最低限の基盤的なものであれば良い」という理由で、自衛隊を増強しない考えを示したものであった。しかし、冷戦崩壊が崩壊すると、その基盤的防衛力を削減するのが妥当だとした。(部隊の隊員充足率を百%にして)自衛隊を動けるようにすることは認めなかったが、国際情勢の変化に応じて削減することは認めたのだった。〕


基盤的防衛力構想の防衛計画の大綱が見直されたのが変化の始まりで、それは動的防衛力構想の登場により、加速される。



冷戦崩壊前、陸上自衛隊の在り方に関する議論は、ソ連の脅威に対抗するために如何に戦力を増強するか、が焦点だった。

充足率八六%、実員一五.五万人を、如何に充足百%の十八万人に造成するか。それが無理ならば、不完全な十八万人体制を如何に動ける体制にするのかを“工夫”することが焦点であった。

ソ連が存在している間、国家目的や国家目標、国益、日本の安全保障について考える必要はまったくなかった。そんなことよりも、ソ連の着上陸侵攻にどう対処するかという、戦闘への危機感の方が強かった。


一九九六年(平成八年)から十五年間をかけて体制を転換し、組織改革を一段落させた陸上自衛隊は、陸上防衛戦略を考える機会はあっても、これらについて改めて一から考える機会は与えられないだろうし、当面そんな暇もないだろう。

しかし、日本の防衛構想、自衛隊のシステム、装備体系を変更するときには、常に日本の安全保障に振り返って考えなければならないのである。

自衛官が自ら考えるべき問題かどうかは別にしても、誰かが真剣に考えていなければならない。



自衛隊には、国家を語り、国際情勢や安全保障、戦略について語れる優秀な人材は幅広くいるが、仕事を通じて、まとまった形を作りあげる作業に就くポストと機会は限られている。というより、ほとんどない。

そういう意味で、私は、誰も答えを持たない日本の安全保障というテーマについて、自由に考えて形にすることが許されるという極めて稀な機会を与えられたのは、幸せだった。

しかも、その後二回、安全保障や自衛隊の将来について考える機会が与えられた。


一回は、防衛研究所の一般課程の学生としての機会で、特別なものではなかった。

一般課程は、毎年一〇ヶ月間の教育で、主として一佐クラスの幹部自衛官や課長補佐クラスの職員を対象としている。防衛省以外の国の機関の課長補佐クラス、外国からの大佐、中佐クラスの留学生、民間企業の職員が参加する。

教育内容は、安全保障、軍事、経済、国際関係など多岐にわたり、アカデミックな自由さのなかで、日本の安全保障政策について考える機会であった。

陸上自衛隊の将来態勢を考えていたときにペーパーにまとめる余裕がなかった内容を、課題研究の討議の場を通じて整理することができた。


もう一回は、一般課程修了後、幹部学校研究部に配置されたときで、陸上自衛隊の長期構想を作る機会であった。正確には、長期防衛見積り策定の前段階の構想作りであった。

陸上自衛隊では、主として軍事科学技術の推移に着目し、研究開発を重視して策定する長期防衛見積り、中期計画という“買い物”計画、年度の業務運営を律する業務計画の三つの計画などを策定して防衛力整備の準拠としていた。

長期防衛見積りは、九年後から一〇年間を対象期間として作る長期構想である。装備研究のニーズを決めるために、脅威分析や将来の運用構想や戦い方を描くのだが、二〇年先まで読むことは難しいので、その研究手法やまとめ方に定められたパターンはない。研究ニーズと担当者の構想力に任されている極めて自由度の高い研究である。


偶然、私が平成三年に策定した体制改革のポスト構想を検討するニーズが出されていた。

ここでは、将来態勢を検討したときには、頭のなかで描くだけに止まってしまったためにやり残していた、情勢分析に基づいた運用構想の策定にも手をつけることができた。

この研究成果は、結果的に、一九九六年(平成八年)から始まった体制転換の後半以降、さまざまな形で取り込まれた。私の作った構想を知る人たちから「そのまま実現したね」と言われたから多分間違いない。



防衛構想を作る立場に立つ自衛官は、当然のように日本の安全保障について考えるのだが、個人的な作業でしかないので資料は残らない。

もっとも陸上自衛隊の所掌事務については公的に議論し、資料や議事録を残すが、所掌事務でないものは公的な場で議論することが無いし、議論したとしても記録に残す必要もない。

個人的な検討資料をまとめる時間的余裕もない。


将来、後輩が我が国の防衛構想を考える上で、あるいは安全保障に関心のある人たちが勉強する際、何かの参考になるのではないかと思って、まとめたものがこの四回目の作業である。

もちろん、過去の検討資料は一切、手元にない。

一度、担当の場を離れてしまえば、自分の作った資料であっても見る機会はない。過去に作ったものを明らかにする目的ではないから見る必要もない。


防衛研修所研修当時のメモを元に、頭の中に残っていたもの、これまで形にする機会がなかったものを整理し、再構成したものが第Ⅰ部と第Ⅱ部である。



第Ⅲ部の統治機構は、かねてから問題意識を持っていた部分で個人的な興味で勉強していたものである。 

かつて、二人の防衛大臣経験者の方に、危機管理と国の意思決定機構に関する問題意識についてお尋ねしたところ、お二人とも「全く問題がないと思う」とのお答えであった。運用上の大きな判断をすることがないときに、防衛大臣を経験されたからかもしれない。


将来態勢の検討を終え、人事異動で、防衛課防衛班から総務課広報室の報道担当へ移ったのち、カンボジアPKO派遣などの国際活動、地下鉄サリン事件、ノドン・テポドン発射事案、能登半島沖不審船事案、阪神淡路大震災などの大きな事件が相次いだ。

事が起きるたびに、シビリアンコントロールや意思決定の遅い早い、意思決定の透明性などが問題にされた。

新聞記者に、根拠に基づいて、防衛問題を正確に分かりやすく説明したいと思った。

それ以降、日本の危機管理に関する統治機構と組織運営、特に大規模災害や原子力災害に関する法的枠組み、内閣(総理大臣)の意思決定と官邸の組織機能、自衛隊の指揮、命令などについて機会あるたびに確認してチェックする習慣が身についた。


二〇〇二年(平成一四年)から二年八ヶ月、西部方面総監部で防衛部長をしていたときには、官邸の意志決定システムや、官邸と新編されたばかりの統合幕僚監部の関係を確認しながら、さまざまな事態への即応態勢を整えた。

官邸の動きは属人的に律せられていて、組織として活動し、意志決定しているようには感じられなかった。

この頃、橋本中央省庁再編、防衛庁の省昇格、安部政権時の国家安全保障会議(NSC)検討、地方分権問題、経済財政諮問会議など、国の統治機構に関する検討が相次いで行われていた。

自衛隊の組織機能や運用構想に大きな影響を与えるものなのでその都度、公刊資料に目を通した。

しかし、どの公刊資料も国の統治機構や意志決定を考えるにしては国の姿が見えず、大組織を動かす実務感覚がまったく感じられず、具体性に欠けるものばかりであった。


釈然としないまま、忘れかけていた時に起きたのが、二〇一一年(平成二三年)三月の東日本大震災であった。

政府の震災対処と原子力災害対処の二正面対処になった指揮活動、自衛隊は、原子力発電所に関して何の責任も権限も情報も持っておらず、二つの災害対策本部によって指揮されていた。

自衛隊の統合任務部隊と日米共同作戦に対する指揮、米軍の活動状況などをつぶさに追いかけることによって自分なりの答えが得られた。


米軍の動きは速かった。

在日米軍は、在日米軍司令部-太平洋軍司令部-国防総省-大統領の指揮系統。

日本に所在する海兵隊は、第Ⅲ海兵隊遠征軍司令部-太平洋海兵隊司令部-海兵隊総司令部-国防総省-大統領の指揮系統。

それぞれに報告し、最高指揮官の了承を得て、部隊を動かす意志決定の速さ。そして政治と軍事の信頼関係。陸・海・空・海兵隊の横のコミュニケーション。

米国のシビリアンコントロールは、極めて厳格である。

厳格に手続きが踏まれて、この速さである。しかも、日米関係が微妙にぎくしゃくしているときに、機微な軍事作戦を行う決断力とリーダーシップの高さ。

これに比して、日本政府官邸と米国の間、官邸と自衛隊・米軍とのコミュニケーションはどうだったのだろうか。


高速道路と鉄道が分断され、仙台空港と松島航空自衛隊基地は津波で完全に洗われ、港湾が使用不能になり、東北地方と日本の策源地である関東地方を結ぶ陸・海・空路の使用が制約された。

地域被害対策において、戦略的な交通路確保は作戦のイロハだが、自衛隊は戦力の投入能力も予備能力も持っていなかった。政治的な判断をどうするのかと思っているうちに米軍が復旧に手をつけた。

東北地方への進出経路を確保しようとした判断の的確さ。

山形空港を使用し、戦略部隊を投入して仙台空港復旧へ着手した判断と調整の速さ、展開能力の高さ。

原子力災害に関しては、これまた原子力発電所の状況を把握した情報能力の高さ。空母を送り込み、自国民保護の対策と準備を進めながら「トモダチ作戦」を展開する複眼的思考と柔軟性、先見性、決断力。


日本の周辺国は「トモダチ作戦」を見て日米関係の緊密さに驚いたと言われているが、日米関係の緊密さもさることながら、米国の意志決定の速さと政治と軍事の一体的な動き、米軍の戦略展開能力の高さや情報力、事態対処の柔軟性などに驚き、改めて米国の意志と軍事能力を見直し、米国が真剣になったときの力強さに警戒心を強くしたと言った方が正しいように思うが、どうだろうか。

 

米軍の優れて高い能力は、国家資源の投入と地道な訓練によって養われ、政治と軍事をつなぐ信頼関係のシステムによって活かされている。

米国大統領は、米軍を指揮している。

米国は、間違いなく、大統領の指揮の下に一丸となって動く。

米国の科学的、論理的思考能力、国民の安全確保や同盟関係の信頼構築に真面目に取り組む誠実さ、危機管理能力、そして政府の統治機構が、米国をして世界の超大国の地位に置いている。


これは米軍だからできるのだと言い訳してはいけない。日本が米国から見習うべき教訓とできることは、数多くある。

目の前に、東日本大震災よりもはるかに甚大な被害が予想されている南関東直下型の地震や東海・東南海地震などの大震災が待ち構えているのだから、教訓に学び、すぐにでも改善に着手するのが、自己の責務に対する真面目さであり、脅威に対する謙虚さであり、国民に対する誠実さである。

復興は生き残った方々の生活に対する責任であり、政府と自衛隊の危機管理態勢の見直しと充実、強化は、将来失われるかもしれない危険にさらされる国民の生命に対する責任であり、国際社会に対する責務である。

 

政治と軍事をつなぐシステム、国家の危機管理システム、そして国家安全保障を司る統治機構の一案を第Ⅲ部で提示した。


安全保障や危機管理について学ぶ方々の一助になることを期待する。

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