オセアニアじゃあ常識なんだよ

幸い、頭痛に苛まれることもない僕はアスピリンにも縁がない。元より普段から何か薬を服用することもなくて、家にあるのは何かの折に(例えば先日の腰痛とか)で処方されるロキソニンのようなものと定番の胃薬くらい。気圧の変化に対してはたまにくらっとくるけれど、とんでもないと形容しなくてはならない程のものには早々出くわさない。だから僕には「キラキラ」は訪れない。おかげさまで自分はそこそこ頑丈な方なのかな、と思っていたけれど、とある知人と話をしていると、その人は不定愁訴とも言われそうなその手の悩みが一切ないらしく、何を言っても「へぇ、そんなものがあるのだな(自分には全然落とし込めていない顔)」と、生物としての圧倒的強者感を見せつけてくる。そこで相手の苦しみに斟酌できない人ではないので、とても有難い。周囲の人の理解度によって、その辺の苦しみの塩梅って変わってくるよね。

精神と身体、それらを包括する大きな何か。何だろう、魂とかだろうか。言ってみて早速疑問符だけど、それは精神とは異なるものなのだろうか。違う気がするのだけど、気がするとしか言えない。二つを支える柱、もしくは器?球形をしているのだろうか。あるいは不定形。そも魂に形象があると想像することそのものが凡庸な気もする。ただ、心身ともに活力が無かった頃を振り返ると、あの時の自分はまさしく「魂が摩耗した生き物」だった。生活のすべてがくすんでいた。
精神の向上に筋トレを、と信仰する一派がいるけれど、あくまで経験則だけど「前提として、しんどい時は筋トレすることもままならなくて、そしてそんな筋トレ一つできないこの自分がますますとても嫌になる」といった類のループに陥ることがままあるので、たとえ簡単なもであっても日々の筋トレを履行できる時点で、それ相応に精神もまた健康なのだろうなと思ってしまう。なお僕はここ最近日々プランクをしていこうと心がけている。体幹を鍛え直していきたいので。

自分の中を突き抜けていく鮮烈な何かとの邂逅は、楽しいよね。ああいうものは何度でも味わいたい。けれど、万人が感銘を受けるものが果たして自分にもそれを訪れさせてくれるのかと言えば、全くそんなことはなくて、そして新しいものがそれを運んでくれるとも、当然限らない訳で。
最近だとスワニスタフ・レムの『ソラリス』がとても面白かった。あれはもっと早くに読んでおくべきだったと思う一方で、今のタイミングだからこそ読み通すことが出来たのかもしれないとも思う。ああいう本はひたすらに読んでいきたい。友人から勧められた映画版の『寄生獣』は今一つだった。あの監督の味付けはどうやら口に合わないらしい。今敏の『パプリカ』はもっと早く、それこそ2006年の公開当時に観ていたらきっともっと強烈に突き抜けていったのだろうな、と残念に思う。面白くはあったのだけど、今は既に『パプリカ』を過ぎた時代なので。時代を乗り越えるものでもあるけれど、「まさにその時」に出くわすことが何よりの最良であることも多い。
にしても、ちょうどいいタイミングでイッテQ!と被っちゃうのは、可哀想だけどそれだけでしょんぼり案件だな。特別ディスりたいわけでもないのだけれど、なんだろう、ミーハー感だろうか。アド街ならよかった。アド街で観たい。アド街が来い。

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