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充実した時間。言葉は各々の捉え方でいく様にもなるので表現が難しい、充実した時間の中には苦しいこと、笑顔になれることもある。

 #先日の余談

<脱稿:95%ぐらい(922W)>

「仕事が楽しいかどうか」という話題が別にあり、そこから続きとして。

まず「仕事」は、いつからしているのか、そして「楽しい」という表現は相応しいか考える。

仕事を「家の手伝い」からすると、実家が小売店をしているため、物心がついた時には、お客さんと呼ばれる見知らぬ人に商品を渡しお金を受け取っていた。それは楽しいということではなく、日常であった。

労働の対価をいただいたのは高校生の頃、初めてしたアルバイト。地元のケンタッキーフライドチキン。確か高校はアルバイトを禁止していた気がするがよく覚えていない。労働の対価をいただくことが楽しいのではなく、アルバイトの仲間と同じ時間を過ごすことが楽しいとも思っていなかった気がする。

当初、厨房にてチキンを捌き、調理をしており、作業をする「達成感」は感じていた。数年経つとレジにて商品の受け渡しをした際、顧客よりお金以外に「ありがとう」という言葉や笑顔をいただくことがあった。

その後、様々なアルバイトをするが、黙々と作業を行うより顧客と向き合える仕事を多く選んでいた。

大学を卒業して就職をせず、作品をつくる環境を整え、発表するようになった。作品を作って対価を得ること。仕事として依頼されたことではなく、つくった作品を購入していただく。作品を創っているのは黙々と作業を行う時間の方が多い。

次第に依頼を受けてからモノをつくる条件が徐々に増えてくる。看板、什器、インテリア、店舗内装、展示会ブース、、、少しずつ領域が広がる。1人でできないようなことはパートナーと一緒に行うことで、関わる領域はグッと広がる。同じ時期、美大受験を目的とした画塾や、デザインの専門学校で何かを伝え、教える仕事を行う時間も増え始めていた。

気が付くとモノではない領域の仕事が増えている。納品という区切りがあいまいな領域の仕事。

クライアントの事業に関わる。ビジョンを共有し、一つ一つのタスクを完了し「達成感」を伴いながら、クライアントと共にビジョンを構築することは「楽しい」というよりも「充実感」という表現の方が近い。

クライアントが支払う対価(僕の報酬)に見合う存在であるのか、僕は社会にとって役に立っているのか。今はそのようなことで精一杯である。

<言葉> #充実 #言葉

僕のnoteは自分自身の備忘録としての側面が強いですが、もしも誰かの役にたって、そのアクションの一つとしてサポートがあるなら、ただただ感謝です。