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論考:三島由紀夫vs東大全共闘

この映画を拝見すべきだと思ったのには、2つの訳があった。

一つ目は、一次情報に触れたかったから。あの時代を生きた人々の肉声や熱、立ち振る舞いを、色眼鏡なく自分で受け止めてみたかった。

当事者が亡くなったら聴くことはできないのだから、特にインタビューに関しては、いま聴いておくことに価値がある。こんな重責を果たしてくださった製作側の方々に深く感謝している。

二つ目は、現代について、余りに思想が語りづらい世の中だと思うからだ。その手がかりになるかもしれない諸先輩方の姿に興味があった。

それを約2時間。見届けたいま、最後に残るのものは、希望に似た感覚かもしれない。

三島は三島らしく、
芥は芥らしく、
生を全うしている、
ただ、それだけのことかもしれない。

両名の共通の敵であった、
あいまいで卑猥な日本国

これは現在も続いていることと思うが、
本作品は、若き青年たちのその見えない敵との闘いを伝えてくれた。

両名は、その敵を無視せずにはいられない、という心情だったと推察するが、そこで、わたしが思うのは、
その敵は、両名の中にもあったのではないか
ということだ。そして、
その敵の一部である自分に気づいていたのではないか。

最も執着したくなるわたしなりの論考は、ここだ。

両名とも、己の中にある、あいまいで卑猥な自己に気づいてしまったからこそ、それに陥落することへの恐怖と抵抗があったのではないか、ということだ。

そう、白旗を挙げてしまえば、楽になれるからだ。
それを、選ばない道の象徴のような、常に闘う姿勢を取った、2つの自己の存在があるということだと思う。

この恐怖と抵抗として、
芥は、屈することなく、なお闘争しながら、生きている。
三島は、ある種敗北を認め、肉体を鍛えて、鮮やかに、死んでいった。
そんは感想を持っている。
共通点がありながらも相入れることはない。

ここで、面白いなと思うのは、
「持続」にこだわった三島は、死を選び、
こだわらないスタンスを示した芥は、生を持続させている。
芥のほうが刹那的にみえるからゆえ、面白さを感じずにはいられない。
三島は、現代の課題でもある、サステイナビリティを考えていたのかもしれないで、個ではなく、集団の未来を危惧していたのかもしれない。

また、解放区というものに関しては、
わたしは限界を感じているところがある。
芥は、自己をすべて解放区に置こうとしているように見受けられるが、
わたしは「思考だけは生涯、解放区たりうる」と思っているのだが、肉体はそうもいかない。
解放区には、限界があると思っている。

結局、何を言おうが、日本の制度の下、日本で呼吸をしているからだ。
これがいまもなお、わたしの中にあるジレンマだ。

女性目線で両名をみるとどう映るだろぅか。

芥は、常に斜に構えたアーティストであり、
三島は、ひたすらロジカルかつ人間臭い。

表面的に、芥は冷たく、三島は暑苦しい。

うーん…どちらも面倒くさそうだなと思う…が、
きっとどちらにも可愛げがあるのだろぅ。
これ以上は想像しきれず、何とも言い難しだ。

ただし、
この実録は、三島vs全共闘の言語による闘争であるが、
芥の存在、思考があまりに影響力があり、
三島vs芥という構図を感じずにはいられなかった。それが芥の最大の魅力かもしれない。

途中で、両名のことを観念遊びをしているだけだ!
と批判を述べた者がおり、
この気持ちは分からんでもなく、
会場からは拍手も起きた。

しかし、それは違うのだ。
そんな下らないかもしれないことに真剣になっている両名はおそらく幸せであり、生きる糧を握りしめていたのだと思う。

分かってねーなー言いたげな顔で、タバコを呑みながら笑う両名はなかなか意地悪であった。

最後に、本闘争にて、
結局、三島が上手であったなと思うのは、

常に相手への敬意と、懸命に傾聴する姿勢を崩さず、冷静に努め、
自分の主張とカッコ悪さも見せ(ここ重要!)、
会場に言霊を飛ばせたことだと思う。

三島劇場にしてしまう彼の懐の広さには、
誰しもが敬服するだろぅし、
今の世には見られないような「覚悟」がそこにはあった。
それは戦死できなかった男の無念かもしれない。

もう少し、この世でがんばってみようかな、
という気持ちにさせてくれる作品だと思います。

明日からも笑顔があなたにありますように。

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