黄色い紐

紐になりたい疲れた男と、食べたい分だけ食べさせる奇妙なラーメン屋の話です。

少しファンタジーでちょっとホラーなショートショートとなっております。

お楽しみいただけると幸いです。

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 紐になりたい。不意にそんな言葉が頭に浮かんだ。女のヒモだとか、そういう意味ではない。完全にその意味を含んでいないかと言われると嘘にはなるかもしれないが、しかし私は単純に紐状の何かになりたいと思った。肉体も意識も全て解(ほど)いてしまって、ただ間延びした身体を横たえるだけになりたかった。きっちりと巻かれた包帯を剥がすときの心地良さが羨ましかった。毛糸玉の鞠を手慰みに転がして、まろび出た一端が蛇行して伸びていくときの柔らかさが羨ましかった。渦巻きの身体を頭頂部の端から引き伸ばせば、きっと身体が軽くなる。空気に浮いて、風に流されて、何処へでも行ける。そうだ。扁平な紐が良い。それであればきっと、絡まって雁字搦めになっても直ぐに元に戻ることができる。身を捩れば、するりと解放される。寝ぼけ眼でそんなことを考えながら、改札を抜けた。

 生温い湿った空気が纏わり付いたような頭で帰りの電車に乗った私は、二人がけのシートの奥の座席、夜であるにも関わらず日除けが降ろされたままの窓を眺めながら、至極当然というべきか、眠りに落ちてしまっていた。目が覚めると自宅の最寄駅はとうに過ぎていて、ちょうど三駅ほど先の見知らぬ駅に到着した頃合いだった。「いっそのこと、ここで一夜を過ごすのも悪くはないか」などという現実逃避が頭にぽつりと浮かんだ。下らないと思いつつ、それも悪くないと、とりあえずこの街を歩いてみることにした。
 未だぼんやりした頭のままでは見知らぬ土地を歩くには少し危険かもしれないと思った私は、一先ずコンビニに立ち寄り、目覚ましがてら栄養ドリンクを一本と丁度切らしていた煙草を一箱買った。煙草を買うときに、最寄りの店で注文するときと同じ番号を言ってしまったが為に、吸い慣れた銘柄と違うものがカウンターに置かれたが、やはりぼんやりしていたので気に留めることもなく年齢確認のボタンを押し、会計を済ませた。
 栄養ドリンクを唇に突っ込みながら、コンビニに面した道を歩く。ローカル線の駅に程近い、それなりに利用客の多い店舗と、人通りも往復する車両も多いそこそこ大きな道。騒がしい道だった。
 とぼとぼという擬態語がこれ程までに似合う足取りもないだろうという歩行で、当て所なく知らない土地を這っていると、緋色の屋根が目立つ、ひとつの露店が目に入った。今時露店など珍しく、そう在るものではないと気が付きそうなものだが、私は何一つ疑問に思うこともなく、その店へ足を向けた。
 赤提灯に頭をぶつけないように気を付けながら、紺色の暖簾に手を差し入れ、少し屈みながらそれを潜る。
「いらっしゃい」
皺だらけの薄い唇から発せられた声が、私を迎えた。肌の浅黒い老爺だった。
「ここは……」
「見ての通り、ラーメン屋だよ」
抑揚のない語調で、店主であろう老人は答えた。
「ご注文は?」
続いて発せられたのは、当然、注文を伺う文句だった。
「ええと、それじゃあ、オススメを」
店主は深い溜息を一つ吐くと、そそくさと調理を始めた。
 寸胴の蓋が開かれ、くつくつと煮えるスープの香りが鼻腔を擽る。店主の枯れ枝のような手に鷲掴みにされた一塊りの麺が、別の寸胴の煮えたぎる湯に投げ入れられ、花のようにふわりと開いていくのが見えた。白く泡立つ湯の表面は波飛沫を思わせた。ぐらぐらと音が響く横で、ひと掬いされた濃い茶褐色のどろりとした液体が、赤く縁取られた丼に注がれる。続いて、煮えていた乳白色のスープが注がれる。二つの液体のコントラストは一つに溶け合い、軽く透ける薄い茶色の湖と化した。老人は直ぐさま身体を捻り、泡立つ釜に箸と網を差し入れた。小気味良いリズムと音で、茹で上がった麺が湯切りされ、スープで満たされた丼に投入される。無駄一つない一連の動作は職人という言葉が似合うものだった。店主の年齢と無骨な顔付きに裏打ちされたような熟練したその手捌きに、私は感嘆していた。
「何突っ立ってるんだ。早く座りな」
その声でフッと目が覚める。促されて、私はようやく足元の丸い木製の椅子に腰を下ろした。
「お待ちどう様」
その声と共に、丼が恭しく目の前に差し出された。
 丼に広がる湖は輝いていた。金色の油が浮かび、その下では黄色い麺が静かに寝そべっている。飾り気のない素朴なその誘惑に待ち切れなくなった私は、きゅうきゅうに詰め込まれた箸置きから飛び出した割り箸を一本を抜き取り、ぱきりと音を立てさせながらそれを開いた。
「いただきます」
柏手を打ちつつ小さく言って、すぐさま箸の先を差し入れた。
 ずるりと麺を啜る。歯と舌とを軽く押し返すようなその感触は気持ちが良いものだった。しかし噛み切るのは何やら勿体無く感じて、そのまま吸い続けた。
「ここの麺は、随分と、長いんですね」
もごもごと咀嚼しながら呟く。些か行儀が悪いものだったが、私の唇は自然、純粋な感想を零していた。
「そうかい?普通だと思うけどね」
店主は気怠げな吐息混じりに答えた。私はその声色をさして気に留めることなく、ずるずると麺を啜った。歯応えのある程良く縮れた平打ちの麺と、それに絡むスープが喉を通るのが、酷く心地良かった。食感を楽しむ為に咀嚼はするものの、ほとんど飲み込むように丼の中身を貪った。啜れども啜れども、麺は途切れることはなく、しかし私はひとつの違和感も感じずに、ひたすらにそれを飲み込み続けていた。フー、フー、という自分の鼻息だけが、露店の小さな屋根に木霊している。止めどなく溢れる唾液は潤滑剤となり、麺を喉に運ぶ助けになっている。麺を支える箸の動きは止まらない。呼吸も忘れるほどに、麺を啜るのを繰り返す。
「お客さん、アンタ相当飢えてるね」
不意に投げかけられた声に、窄めた唇から麺を垂れ下げたままで顔を上げる。相当間抜けな表情だっただろう。クエスチョンマークを貼り付けた顔に気付いてか、店主は答えた。
「アンタの丼、見てみな」
言われるままに丼を覗き込む。特におかしな所は見受けられず、先程から何ひとつ変わってはいない。
「どうだ?ひとつも減っちゃいないだろう?」
その通りだった。丼の中身は差し出されたときのまま、文字通り、何も変わっていなかったのだ。
「ウチはお客が食べたい分だけ提供するラーメン屋だ」
再び店主の顔を見上げる。現実離れした店主の言葉を一瞬疑問に思ったものの、不思議と次の瞬間には納得していた。おそらくこれは夢だ。電車の中で眠ってしまったのと同じに、ラーメンを食べながらまた眠ってしまって、夢でも見ているに違いない。そう考えた。それが自然に思えるくらいに、私は曖昧な意識でこの店まで来たのだから。
「アンタはそれ程までに飢えてるってことなんだよ」
再び、飢えていると言われたものの、やはり、いまひとつその意味が分からなかった。確かに腹は減っているし、尚も空腹は満たされていなかったが、そう言われてしまうほどに暴食しているわけでも、極端に急いで食べているわけでもない筈だ。それにこれは私の夢なのだから、食べ方など私の自由である。
「悪いことは言わないから、その辺りにしておきな。帰れなくなるぞ」
尚も忠告を繰り返す店主に少しの苛立ちを覚えつつも、私は目の前のラーメンに向き直り、舌鼓を打つことに、夢のひと時を楽しむことだけに集中した。
 癖になる味だった。麺の食感もさることながら、その味とスープの風味のバランスが絶妙なのだ。これなら幾らでも食べられる。そういう思いが、私の手を止めさせないのだろう。私は一心不乱になっていた。確かに店主の言うとおり飢えているのかもしれないと思い直したが、次の嚥下の頃にはすっかり忘れている。そんな状態を何度も繰り返したように思う。いや、一度だけだったかもしれない。今はそんなことはさしたる問題ではない。ただ目の前のラーメンが美味い。それだけが重要で、ここにある唯一の事実だった。
「おい」
 至福の時間を邪魔する煩い声は無視して、ただ食べる。
「おい、アンタ。聞こえてるか?」
聞こえないふりをして、麺を口に運び続ける。
「オイッ!」
店主の怒声にハッとして、丼に食らいついていた視線をあげた。
「お客さん、アンタ、ちょっと食べ過ぎだ」
 一体どれくらいの時間こうしていたのだろうか。見当もつかなかった。何しろそれを知る術がない。減ることのない器の中身では、それを確認することもできない。スープも冷めてはいない。目の前にあるものは何も変わっていない。時計の秒針でさえ微動だにしていなかった。
「自分の身体、見てみな」
言われて視線を自らの足の方へ下ろす。私の下半身は、すっかり消えていた。
「ヒッ…………」
声にならない小さな悲鳴が零れる。しかしそれでも、私は口に咥えたままの麺を離すことはしなかった。否、出来なかった。
「アンタ、自分を食ってるんだよ」
尚も止めることのできない咀嚼の度に、私の身体が解けて消えていく。
「んん、んんう」
嫌悪感と吐き気から飲み下すのを躊躇し、ラーメンでいっぱいになった私の口からくぐもった声が漏れ出る。しかし唇は麺を咥えたまま離さない。
「物事には限度ってもんがある。それは当たり前のことだろう? アンタは目が眩んで、そんなことも分からなくなっちまったんだ。当然、限度を超えた分は支払わなくちゃいけない。これはアンタが食ったラーメンの代償だ。アンタは払い切れなくなった分を自分で支払ってるんだ。アンタはアンタを食っちまってるんだよ」
店主は一瞬曇った顔を見せ、一呼吸の間、言い淀んでから言い放った。
「今更言っても、もう遅いだろうけどね」
 店主の言う通りだった。恐ろしい事実を突きつけられて尚、私はラーメンを貪り続けていた。止めようにも止めようがなかった。その術が私にはどうしても分からない。飲み込むことに躊躇していた自分はもういなかった。ただ自分自身で満杯の口内に、残った肉体を押し入れることしか出来ない。今や私は同じ動作を反復するだけのモノに、自分を喰らい続けるだけの虚ろな穴になっていた。私の肉体が、その端からするすると解けては、みるみるうちに消えていく。ずるずる、ずるずる……一定の間隔で、啜る音が鳴る。じゅるり、じゅるり……湿った音が、鼓膜に響く。するり、しゅるりと、何かが解ける音が聞こえる。カラカラと、二つの音が転がる。ズズッ、ズズッ。唇と喉だけで自分を食う。不気味な振動だけがそこにある。最早私は身体の力で自分を食ってはいない。それは独りでに、私へと吸い込まれる。ズズズッ……ズズ……ずずっ––––––––

ちゅるッ––––

 私の肉体は完全に消失した。


 私は紐になりたかった。薄く曇った先の向こう側の明かりを反射する油が浮かぶ天井を見上げる。私は本当にこうなりたかったのだろうか。私の肉体はすっかり解けてしまって紐状になり、茶色い水の底に身を横たえるだけになっている。湯に浸かったときのような微睡みを全身で感じる。私を包む液体がだんだんとその温度を下げていく。空を覆っていた薄靄(うすもや)は晴れ、同時、私は延びきった意識を手放した。

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