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2021年ついにYouTube時代の終わりが来た

異常気象という言葉がある。

「異常」というのは、なにと比べて異常なのか。

この10年か、50年か、100年か。

地球が誕生した50億年の歴史から見て異常なんだろうか。

10代の半分がテレビをあまり見ないというが、半分が見ているというだけでも僕は凄いと思う。

これまではテレビしかなかったから、そればかり見ていただけで、今が変わったというより、前が異常だったとも言える。

遡れば、なかった時代のほうが正常だったのかもしれない。

「テレビはもう終わる」

と、10年前くらいから声高に言われていた。そんなニュース記事が出て、当時はまだ強い影響力を持っていたヤフートピックに転載され、Twitterでトレンドになって大騒ぎしたり、インフルエンサーらもこぞって「テレビはオワコン」などとSNSで発信した。もう誰も覚えてないだろう。

「音楽業界は終わる」「出版業界は終わる」とも言われていたが、ご覧のようにどこも終わっていない。うっせえわ。

次々と新しいミュージシャンは出てくるし、『鬼滅の刃』は未だバカ売れ中だ。

もちろん縮小はした。変容もした。これもまた、一昔前が異常だったに過ぎない。

「○○は終わる」という言葉が持つインパクトは強い。よく売れる。

占い師もそうだけど、ビジネスインフルエンサーたちは強い言葉で引きつけておいて、その通りにならなくても良しとされる。

警告はいくらしても怒られない。これを「地震予知不問の法則」と僕は呼んでいる。

「○月○日、大地震に気をつけて…」とツイートしてどれだけバズって外れても、お咎めなし。

来なければ来ないに越したことはないので、そういった注意喚起は必要だからね

とむしろ誉められる。まじ卍。

また、そもそも忘れてしまうというのもある。簡単に忘れられる程度のわりに、インフルエンサーではあるようだ。

または、忘れさせるよう次から次へと未来を見せ続けているのかもしれない。でもどれも外れてるから、そこで気づいて離脱できればまだしも、二周目三周目に入る。目を覚まさせないために、警告は次々と放たれるのだ。

テレビは終わったと言いがちなのは、テレビに出れない人たちが多い。

次は、YouTubeで結果が残せない人が、YouTubeは終わる、と言い始めそうだ。

Instagramは終わる、TikTokは終わる、SNSは終わる、とでも言えば今なら少しは引きつけられるかもしれない。

あなたももしかしたら「えっ?You Tubeって終わるの?なんで?これからはなにが来るの?置いていかれたくないよー」と思ってこの記事をタップしたのではないか。

そんなあなたは、これまでも、これからも、この手法にかかってしまう可能性が高い。今日でその悪い流れを断ち切ろう。私を嫌っても良い。今日以降あなたがこの手法にかからなくなるなら、喜んで人柱となろう。

テレビは向こう10年はまだ影響力を持つと思う。少なくともこの日本では。

結局はテレビが衰えたというより、テレビ以外のメディアがたくさんできて分散したに過ぎない。

未だにYouTubeでは、頑張って撮影し懸命に編集した動画より、昔のテレビの違法アップロード動画のほうがあっという間に数字を稼ぐ。ご丁寧に広告までついてやがる。

テレビで活躍してる芸能人がYouTubeを始めれば登録者はすぐ増えるし、YouTuberがテレビに出れば、ファンも大騒ぎする。

かつてセックス・ピストルズのジョニーロットンは、「ロックは死んだ」と言った。

ハイロウズは「そりゃロックの勝手だろ」と歌った。

テレビもロックも、我々がコントロールできるものではない。終わるときは勝手に終わるだろうし、少なくとも我々が終わらせることはできない。

つまり、「終わった」というのは、「終わってほしい」という願望だ。

それはまるで、元カノや元嫁に不幸になってほしいと願うそれに近い。

人の不幸は蜜の味というように、妬みの対象が大きければ大きいほど、転落したときはメシウマとばかり人は喜ぶ。

とてもよくわかる。散々好き勝手やりやがって。いい気味だ。

ただ、そのことによってこちらが幸せになるという因果は一切ない。例え星野源が新垣結衣と離婚したって我々が幸せになることはないし、新垣結衣と結婚できるわけでもない。

誰かが不幸になってもこちらの幸せに関係はない。多少胸がスッとはするかもしれないが、そんなことで幸福感に満たされるくらいなら、なにもしなくてもずっと幸せでいられるだろう。

誰かが失敗しても自分が成功したわけではないように、誰かが成功しても自分が失敗したわけではない。

幸せを得るために誰かの不幸を探しにいくより、誰かの成功が自分の成功になるような構図を作れば、幸せの確率は上がる。

「ちくしょう!今日も巨人が負けやがった!」

巨人となにも関係ないのに、なんて巨人が負けて悔しがるんだろうと、昔はこういう人の気持ちが全く分からなかった。

今思えばこれは、巨人に加担しているということなのだ。

つまりはファン。今でいう「推し」もこれに該当する。

自分以外のなにかに加担するということでは、わかりやすいものいうと、投資がある。

投資先がうまくいけば、そのまま自分に還元されるし、投資先が失敗すれば、自分が損をするリスクもある。

リスクを背負わずして幸せを追い求めることはできない。しかし、投資先を自分だけに留めるのも、リスクがある。

自分の人生を、本当に自分の力だけで100%幸せにできるか。50%ならいけるかもしれない。じゃあ残りを10%ずつ5つほど、なにかに加担しよう。

というわけで僕もいろんな一般女性のファンになって、あちこちに加担しようと思ったが、どうやらこれは許されないようである。

サポートしてくれたら今日は「麦とホップ」から「エビスビール」に変えます。本当にありがとうございます。