戦時下のサイゴンに日本が作った「南洋学院」の今
戦時中の昭和17年(1942)から昭和20年にかけて,ベトナムのサイゴンにあった,陸海軍ではなく,文部省・外務省共管による「南洋学院」。
その第一期生で福島県出身の方の著書「南洋学院 戦時下ベトナムに作られた外地校」。
''まえがき''に「戦時中の昭和17年から20年にかけて,当時のフランス領インドシナのサイゴンに南洋学院という学校があった。文部省・外務省共管,公費の旧高専校で,『東洋民族の共存・共栄,邦人発展のため,その第一線に立つ指導的な人材を養成すること』を目指すというのが建学の趣旨であった。」とある。
「南洋学院」の建物が現存する,さらに隣にはベトナムに進出したトヨタカローラ福島の販売店があるとの情報があったので,平成30年(2018)11月,ホーチミン出張の際に,チャン・フン・ダオ通り(Đường Trần Hưng Đạo)沿いにあるという“現地”に行ってみた。
が,残念ながら,最近取り壊されてしまったようで,トヨタカローラ福島も移転,社名標識だけが残っていた。
南洋学院には著者だけでなく,全三期112名のうち福島県出身が8名在籍していた。中には会津松平家の血をひく人や,福島市で有名な大文字屋の斉藤さんもいた。
南洋学院は終戦で廃校になったが,その建物はベトナム戦争時,あの韓国軍の軍事本部として使われていたそうだ。
また,この著書の「古くからあったベトナムと日本の交流」の項目で,陸奥国磐城郡小名浜村(今の福島県いわき市)の船乗り6人が,明和2年(1765)11月に江戸へ廻米の途中で漂流,2ヶ月後に安南国(今のベトナムのフエ,ダナン,ホイアンのあたり)に漂着し,2年後にうち3名が帰国した例が紹介されていた。
それにしても当時,2ヶ月も洋上を漂流した上に,太平洋とは反対側のベトナムに辿り着くとは,映画でも描けない。
当時の小名浜は天領で,廻米として各藩から集められた年貢米を江戸に海送しており,この船乗りもその役目のようなので,立派な船だったのかもしれない。食料は年貢米か。
鎖国中にも関わらず帰国できたのは,”小名浜領主”の徳川幕府と,当時安南を支配し,後に王朝を開く阮氏との協議のもと,清国経由での公式ルートによるものかもしれない。
東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。