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坂の上の「明治」とベトナム

 ベトナムの中学生(4年間)が使う歴史の教科書には,明治から戦後復興までの日本が,かなりの ページ数で描かれています。
 とりわけ明治維新(Duy tân Minh Trị)については,フランス革命以上の扱いです。明治天皇(Thiên hoàng Minh Trị )による親政とされていて,日本だとアレルギー反応を起こす人が騒ぎそうですが,対外的な評価はそんなものかもしれません。
 労働者に圧政を敷いた面ばかりが強調されがちな日本と違って,社会主義国ベトナムは,最も多感な中学生に対し,明治維新の意義を端的に以下のように教育しています。そのため,明治天皇や明治維新は,(きちんと勉強した)ベトナム人なら誰でも知っているそうです。
 西洋列強(アメリカ,ロシア,イギリス,フランス…)は,日本への介入をますます強め,“開国”を強く求めた。この状況下において,日本は,西洋植民地主義の餌食となる朽廃していた封建制を維持継続するか,国土発展のために改革するかを選択する必要があった。1868年1月,即位後,明治天皇は,日本が遅れた封建体制から抜け出すことを推し進める諸改革を実行した。これが明治維新であり,経済,政治,社会,文化,教育及び軍事など多くの分野で実施された。

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 そして「維新(Duy tân)」の名称自体,日露戦争直後の1907年(明治40年)に即位した阮王朝11代皇帝時代の元号に使用されています。

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 ”維新帝”は,日本へ留学生を送る東遊運動(Phong trào Đông Du)を支援し,植民地支配を進めていたフランスに抵抗した皇帝として,今でもベトナム人に人気があります。

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 もっとも,維新帝は,間もなくしてフランス軍に捕えられ,フランス領マダガスカル沖の孤島(レユニオン島)に流され,“戦後“となった1945年12月,ついにベトナムに帰ることなく,遠くアフリカの孤島で亡くなったそうです。

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 「維新(Duy tân)」は,今でもハノイ市やホーチミン市などで通りの名前としても使われて,特にハノイ市の”維新通り(phố Duy Tân)”は,FPTソフトウェア社の本社があるなど,日本から進出した企業を含めベトナムにおける先端的IT産業の中心地となっています。

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東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。