「援蒋ルート」を今に上る鉄道の旅
隣の大国・武漢に由来するウィルスに対する警戒は,既に日本の比ではなかった2020年2月上旬のベトナム北部。
ハイフォンからハノイへ鉄道で移動。
これはフランスがベトナムに敷設した僅かな鉄道の一つ。単線で,電車ではない。1902年に開業し,ハノイ近郊のザーラム駅(Ga Gia Lâm)で分岐し,ベトナムのランソン(Lạng Sơn)からChinaの南寧まで,ラオカイ(Lào Cai)から昆明まで繋がっていた。
アメリカやイギリスが,1937年から日本と抗戦状態にあり,重慶に移転していた蒋介石の中華民国を援助するため,ハイフォンで水揚げした武器や食料などの援助物資を重慶まで送るのに使ったのも,この鉄道。いわゆる「援蒋ルート」の一つにして最大のもの。
援蒋ルート日本軍は,1939年11月には南寧を占領し,残る「ハイフォン・ラオカイ・昆明」のルートを遮断するべく,フランスと交渉を重ねその協定に基づいてベトナム北部に進駐する。いわゆる「北部仏印進駐」で,アメリカやイギリスと戦争に至る原因の一つとなった。もっとも,抗戦状態にあった二国の一方を援助することは,既にアメリカやイギリスは日本と戦争状態にあった,とインドのパール判事は東京裁判で認定しているが。
そんなことを考えながらの車窓は,水田が続き故郷の常磐線を思い出させる。ハノイまでは僅か100Kmぐらいだが,時速50キロで走るため,2時間半くらいかかる。席の種類は,社会主義の国らしく等級ではなく,ソフトとハードがある…
1937年11月に上海,同年12月に首都南京,翌1938年10月に武漢が日本軍に占領され,中華民国の国民政府が重慶に逃れていた頃,法政大学に留学し,孫文の“右腕”として民主化と反共産主義と日本との和平を進めていた汪兆銘が,独裁色の強かった蒋介石と袂を分かち,1938年12月,重慶からハノイに逃れて暫く滞在したのが,現在のここソフィテル レジェンド メトロポール ハノイ(Sofitel Legend Metropole Hanoi)らしい。滞在中,長女の結婚式もこのホテルで行われたそうだ。
フランス統治下のハノイにあって,汪兆銘は,密かに潜入した日本関係者と会い,1939年4月,ハノイから既に日本軍の占領下にあった上海に脱出,翌1940年3月30日,日本軍の占領下にあった南京で「国民政府」を樹立,同じく日本軍が占領していた北京,武漢,上海など主要都市をその版図とし,蒋介石に和平を打診し続けていた。
当時の近衛内閣は「東亜新秩序」を提唱し,ブロック化を進める欧米に対抗すべく,日本,満洲国及び中華民国の共存共栄を掲げていた。
わずかに重慶だけとなり,さらに奥地の延安の毛沢東の共産党と手を結んでいた蒋介石の国民政府に対し,中華民国での既得権益を日本に奪われるのを嫌がったアメリカやイギリスが,ベトナム・ハイフォンからの「援蒋ルート」を通じて援助を続けたために,近衛内閣の下で,「東亜新秩序」が「大東亜新秩序」に拡大,同1940年9月,ハイフォン・ハノイなどのベトナム北部へ日本軍が進駐することになった。
日本を叩いて,結果的にソ連に中華人民共和国に北ベトナムと対することになるなど,どうも,アメリカは目先の邪魔を叩くことで,より面倒な敵を生み出す傾向にあるようだ。
東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。